森 宗勇 MORI SOYU

MORI Family

森家の歴史

森宗勇が生まれた家は、遡ると戦国時代に織田信長に仕えた森可成を祖とする森氏の流れを汲み、戦国・江戸・明治・近代という日本の歴史の大きな転換の中を歩んできました。

森家の歴史は、単なる家系の歴史ではありません。

戦国時代には武将として、江戸時代には大名として、また各地に分かれた一族は藩政を担う家臣として、明治以降はそれぞれの立場から社会の発展に携わってきました。

その歴史の一端を、森宗勇の家に伝わる記録をもとにご紹介します。

戦国時代

  1. 1523 - 1570

    森三左衛門可成 (もり さんざえもん よしなり)

    森家の歴史を語る上で、その出発点となる人物が森可成(もり よしなり)です。

    可成は織田信長に仕え、桶狭間の戦いを進言するなど信長の勢力拡大を支えた重臣の一人でした。

    元亀元年(1570)、浅井・朝倉勢と織田・徳川勢が激突した宇佐山城の戦いにおいて可成は宇佐山城を守り、奮戦の末に戦死します。

    その後、森家は子の森長可によって受け継がれました。

  2. 1558 - 1584

    森武蔵守長可 (もり  むさしのかみ ながよし)

    長可は父・可成の死後、若くして家督を継ぎ、織田信長のもとで各地を転戦。信濃国の制圧などで大きな功績を挙げ、「鬼武蔵」の異名でも知られる勇猛な武将となりました。

    本能寺の変後も、長可は豊臣秀吉のもとで活躍しましたが、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで戦死しました。

     

  3. 1565 - 1582

    森蘭丸・力丸・坊丸(もり らんまる・りきまる・ぼうまる)

    可成の子には、長可のほか、織田信長の近習として知られる森蘭丸(成利)がいました。弟の力丸、坊丸、千丸も同じく信長の近習となります。

    功績を残して討ち死にした森可成を哀れんだ信長は、幼い4人の兄弟を手許において養育し、近習として仕えさせました。特に蘭丸は眉目秀麗といわれ、気が利いた人物として当時の史料に多く登場します。

    ミカンの逸話

    有名な話にミカンの逸話があります。信長に命じられて別の部屋からミカンを運んできた蘭丸は、信長に「そんな風に持っていたら落とすからな」と注意を受けます。蘭丸は無事に運び終えようとするのですが、最後のところでつまずいて転び、ミカンを落とします。苦笑いする信長と、あきれる諸将でしたが、これは蘭丸がわざと行ったものでした。なぜなら、信長に注意をされても無事に運び終えたら、それは信長が言ったことが嘘になるから。信長の言葉は絶対であるということを示す逸話です。

    刀の鞘溝の数

    ある時、信長は小姓衆を集めて、「この刀の鞘(さや)に刻まれた溝の数を言い当てた者に授けよう」と問います。

    小姓たちは数を想像し答えを言います。しかし蘭丸だけが答えなかった。信長が蘭丸に理由を問えば、「いつもその刀の手入れを自分がしているため、答えを知っているから言わなかった。黙っていればバレないことだけれども、それでは主君を欺くことになるので申し上げなかった」と回答。感心した信長はその刀を蘭丸に下げ渡した。刀は鎌倉時代の名刀と知られる不動行光といわれ、本能寺で焼けたとされるが、不動行光は無傷で現存しており、定かではありません。信長の行動を日常的に観察し、その動きの先を見据えた配慮は、茶道家としての心構えにも通じるところがあります。

    蘭丸は信長の側近として仕え、本能寺の変の直前、1582年3月に岩村城5万石を与えられます。若干17歳でこの処遇は大変異例なことでした。

    その3か月後、本能寺において信長とともに討死します。

  4. 1570 - 1634

    森右近太夫忠政 (もり うこんだゆう ただまさ)

    そして、可成の子の中で最後に森家の家督を継いだのが、森忠政です。

    幼名は千丸。本能寺の変の3か月前まで兄蘭丸らとともに信長の近習を務めていましたが、同僚の梁田氏と諍いを起こし、岐阜城に謹慎となった矢先の本能寺の変でした。梁田氏も本能寺で戦死。千丸は兄長可に救出されます。

    その後、羽柴秀吉に仕え、名を忠政と改めて兄長可の金山城を引き継ぎます。

    秀吉の死後は、細川忠興の誘いに応じて徳川家康のもとに参じ、豊臣家に召し上げられていた長可の旧領の海津城を賜ります。喜んだ忠政は待城と改め、現在の松代市となります。関ケ原の戦いでは徳川本隊を率いる秀忠軍を補佐して中山道を上がり、上田城攻めに参陣。これが時間を要し、秀忠は関ケ原の戦いに遅参します。徳川本隊の大遅参という憂き目に遭い、秀忠は諸将の前で家康から大叱責を食らいますが、同道の森忠政や仙石秀久らが処分を受けなかったことを見ると、これは諸将の怒りを抑えるための家康の芝居で、家康は徳川本隊35,000を温存し、諸将の兵力を削いだ形となることを狙ったとの説が近年あります。処罰を受けるべき忠政ですが、こののち、美作国一国18万6500石の国主大名に大抜擢をされます。

    亀鶴姫の婚礼道具(当家蔵)

    その後、嫡男忠広に前田利常の長女、亀鶴姫が嫁ぐことになります。

    亀鶴姫の母は徳川秀忠と於江与の方の次女珠姫。祖母於江与の強い希望により森家へ嫁がれることとなり、亀鶴姫は叔父にあたる将軍・徳川家光の養女という格をえて、前田家から森家へ輿入れされます。しかし嫁がれること3年、18歳で早世されました。

    寛永11年(1634)三代将軍徳川家光から将軍上洛の饗応を命じられます。病床にあるため一度は断りますが、上洛饗応を終えたのち伯耆・石見・出雲の三か国を賜る内示を得て上洛。しかし、京都に滞在中、豪商大文字屋宗昧の屋敷で茶会に招かれ、水菓子の桃が原因となって腹痛を起こし、1634年7月7日京都妙顕寺にて急死。

    京都船岡山にて火葬され、京都大徳寺三玄院に葬られました。

    本源院殿前作州国主羽林中郎将先翁宗進大居士

    忠政は兄たちとは異なる道を歩み、豊臣秀吉、徳川家康の双方に仕えながら国主大名としての地位を確立していきました。

    戦国時代の森家は、可成、長可、蘭丸、そして忠政という兄弟を中心に、それぞれが歴史の大きな舞台で活躍した時代でした。

江戸時代

森忠政と津山藩

  1. 1610 - 1698

    2代 森内記長継 (もり ないき ながつぐ)

    森忠政には2人の男子がいましたが早世し、戦国武将関成政に嫁いだ三女の於郷の息子、つまり忠政の孫である長継を養子とし、森家を継がせました。最初の名を関家継といい、森家を継ぐにあたり長継と改めました。

    先代忠政は将軍家光の上洛を迎えるために滞在していた京都での急死。長継は家督相続の御礼のため、江戸から京都に急行し、家光が滞在する二条城にて家督相続の御礼を申し上げます。

    幕府からの信頼も厚く、天草四郎で知られる島原の乱で責任を取らされた島原藩主松倉勝家の身柄を預かり、島原から津山を経由して江戸へ連行し、幕命によって森家の下屋敷にて斬首に処します。これは江戸時代の大名で唯一の斬首でした。

    長継は藩政を整え、城下町を発展させるとともに、領内の産業や文化の振興にも力を注ぎました。城下には京都の仙洞御所を手本に、遠州流の造園師を招いて築庭させた池泉回遊式の庭園を造らせた。その場所は現在、衆楽園と名付けられてその一部が残されています。

     

    寺社の修復や創建にも注力し、当時徳川家が推奨していた黄檗宗に帰依して、領内には黄檗宗の寺院も建立しました。

    津山藩が最も安定し、栄華を極めた時代の一つが、この長継の治世です。

    森長継が作らせ、奉納したと伝わる大涅槃図。(津山本源寺蔵)

    しかし、長継の治世は長く、後継であった嫡男森忠継がはやりの病で急死します。長嗣はこれを痛く悲しみ、忠継臨終の場で忠継の一子、長成を元服ののちに藩主を継がせることを誓います。それを聞いた忠継は笑みを浮かべながら目を閉じたといわれます。忠継没後、長継は直ちに隠居を決め、長成の元服まで、次男森長武に継がせることとします。

    長継はその後も長生きし、1697年津山藩の改易により、隠居料として西江原2万石を与えられ、その翌年に江戸芝の藩邸(現在の文化放送社屋付近)で死去。87歳。

    現在東京タワーがある芝の瑠璃光寺に葬られました。藩祖森忠政から関衆利までを見知り、森家97年の栄枯盛衰を見届けた唯一の人となりました。

    長継院殿静林道岳大居士

     

  2. 1645 - 1696

    3代 森伯耆守長武 (もり ほうきのかみ ながたけ)

     

    長州藩主毛利綱広へ宛てた年賀の書状。長義は長武の初名。藩主就任の前後か。(森家蔵)

    森長継の次男森長武は武道に優れ、幕閣とのつながりを強化させ、増上寺の火ノ番など、幕府のお手伝い事業を進んで受けることで、将軍家に森家の覚えめでたくさせ、家格を上げようと専念します。しかし、これには多額の費用が掛かり、藩の財政は窮乏します。その一方で内政では長武は藩主の権力を強化するため、譜代の重臣を排除して側用人を重用。藩札を発行して、佐良川水路の改修を命じて農作物の安定化を図り、家臣に対してはの知行削減や寺社領の没収などを行なうなどして藩財政を維持し続けた。1676年、弟の長俊に新田1万5000石を分与し、津山新田藩を立藩した。これは長成の成長に伴って自身の隠居時期が迫っていることから、自身の隠居後、弟長俊より高い石高を隠居料としてもらうことが目的だったとされる。

    長成は元服。しかし、藩主の座を渋る長武に、先代長継の進言を受けて隠居。

    4代藩主となった長成は長武に2万石を分与するが、領地ではなく、藩の蔵米から支給するというものだった。通常、1万石以上の武士は大名といわれるが、領地で支給されないと大名にはなれない。これは長武の治世で知行を減らされた重臣・藩士らの報復であったとする見方もあるが、これは蔵米2万石で支給された先々代藩主・長継と同じ扱いであり、森家としては先例を取ったものだった。しかし、高齢で隠居を自認する長継とちがい、隠居当時40代の長武はまだ大名としての生活・活動を望んでいた。だが、蔵米の2万石ではそれが実現できなかった。そこで長武は現役時代の伝手を使い、幕閣にも(甥の森長成に自身の2万石を領地としていただくよう進言願いたしの)働きかけをするも効果はなく、蔵米での2万石のまま江戸関口の藩邸にて病没。
    森家歴代の墓所に入ることを拒み、遺言に従って寛永寺護国院に葬られるが、その後その墓所に徳川綱吉の墓所を建てるために改葬。さらに吉宗廟建立のため再び改葬。明治になって青山墓地へ3度目の改葬をされた後、関東大震災の損壊を受けて赤穂花岳寺の森家墓所に墓碑が移設された。

    円明院殿碧雲鉄山大居士

  3. 1671 - 1697

    4代 森美作侍従長成 (もり みまさかじじゅう ながなり)

    藩主就任に伴い、隣国、岡山藩主池田綱政へ宛てた昼食の誘い。森長成自署(森家蔵)

    幼名を万右衛門といい、2代藩主森長継の嫡男・森忠継の嫡男であるが、父忠継の早世によって、3歳で後継者となった。しかし江戸幕府では、未成年の大名は養子を定められないことから、未成年のうちに亡くなると、藩は収公、つまり改易になる決まりであった。

    子供の死亡率も高かったこの時代、3歳の万右衛門を藩主に立てるのはリスクであったため、忠継の弟・森長武を以て藩主とし、万右衛門成長ののち、改めて藩主の座を譲るという約束であった。晴れて万右衛門は成長し、長成と名乗るが、長武は何かと理由をつけて譲位を遅らせようとする。遂には長継からの進言があり、万右衛門長成に藩主の座は譲られた。その後、長成は美作守に叙任され美作守長成、その後、美作侍従となる。長成と長武の関係はあまり良いものではなく、特に隠居料2万石を領地ではなく蔵米で与えられ、大名に列することができない長武は、長成の落ち度を探しては幕閣に注進するようなこともあった。

    森家に財力があると見た幕府は、中野村に野犬10万匹を収容する御犬屋敷の造営を命じられます。大阪や江戸の商家から資金を調達し、半年ほどの期間でこれを完成させます。将軍綱吉からは忠政以来の官位・侍従を賜るも、病弱であった長成は過労を得て27歳で病没。子はなく、渋谷の祥雲寺に葬られました。雄峯院殿賢仲義英大居士

五代 森衆利と津山藩改易

  1. 1673 - 1705

    継嗣 森衆利 (もり もろとし)

    (西江原町永祥寺に残された関衆利の墓所。衆利の死の翌年、森家は播州赤穂へ転封となり、西江原藩は消滅した。墓碑だけが残された。)

    津山藩江戸屋敷では、幕府に死亡届を出す前に、後継者の選出に苦慮します。そこで、津山藩家老として幕閣とも深いかかわりを持っており、かつ長継の12男として重臣・関家に養子に出されていた関衆利を、森家に戻し、森衆利を森家の後継にするとした長成自筆の書状を作り上げ、前藩主森長継の差配で幕府に提出。これが認められて、その翌日に長成の死去を届け出ます。末期養子は禁じられていましたが、幕府でも薄々察知していたことは明らかです。

    こうして5代藩主には森衆利がつくこととなり、津山から江戸に将軍綱吉への就任御礼挨拶に向かう途中、伊勢国縄生村朝日(桑名藩領)で幕閣を批判し、側近を斬りつける事件を起こします。藩主長成が命じられた中野村のお犬屋敷造営で、浪人が深夜に侵入して犬を惨殺した事件が起きます。幕府はこれを咎め、当時責任者であった津山藩士・若林平内が職務怠慢を理由に切腹を命じられた。この報が届いたのがちょうど衆利一行が江戸に向かう途中の桑名領であった。犬のために死を賜った事に怒り狂った衆利は藩主の座に就くことを拒み、これを諫めた家臣を斬りつけたのといわれます。

    津山藩ではこれをひた隠しにしますが、医師の出入りがあるなど、たちまち桑名藩の知るところとなり、桑名藩の通報も受けて、森衆利の乱心を理由に家督相続は取り消され、森家の領地没収、津山藩18万6,500石の改易が決まります。衆利も家督相続を取り消されたことにより関氏に戻されます。

    しかし、加賀前田家と肥後細川家の嘆願があり、森家は無嗣改易(跡継ぎ不在による改易)とされ、分家の存続を許され、存命の2代長継87歳に隠居料2万石(西江原藩)、森長俊に1万五千石(三日月藩)、関長治に1万8千石(新見藩)が分与され、合計5万3千石。18万6千5百石から大きな減俸となりましたが家名存続は許されました。蟄居を命じられた関衆利は、父長継に預けられ、父の没後は兄の長直に預けられました。長継の隠居領である西江原にて没し、井原市西江原町の永祥寺に今も眠っています。寿仙院殿鶴林全松居士

江戸時代の森家

各地へ広がった森氏

津山藩改易後、本家が消滅した森氏の一族は各地に分かれ、それぞれの立場で家を存続させました。

その中には、分家として引き続き大名となった家、また大名家を支える家臣となった家があります。

西江原藩主 森家(のち、赤穂藩主 森家)

津山藩改易のとき、2代長継が87歳で存命していたため、幕府は津山藩時代に給されていた2万石を引き続き隠居料として長継に与える事を許し、備中西江原に陣屋を作ることを許可します。これが西江原藩です。

美作一国18万石という広大な津山藩森家の改易は、数千人の藩士とその家族を浪人として路頭に迷わせることでもあり、美作国内の治安維持と、森家の遺臣が自暴自棄となって津山城に立て篭もられる事を幕府が恐れ、また前田、細川、池田、浅野と言った大藩からも森家存続の嘆願があり、長継の2万石は森長俊(津山新田藩1万5千石)、関長治(津山宮川藩1万8千石)の領地と共に、津山城を無事に引き渡したのち、改めて幕府より給するという条件によるものでした。

江戸にいた長継は18万6,500石の全てを失うところ、53,000石残すことができることを知って喜び、津山城を明け渡します。

しかし長継は翌年に死去し、長継の8男、森長直がこれを引き継ぎます。西江原を統治すること8年、播州赤穂藩が忠臣蔵で知られる元禄赤穂事件で明け渡しとなり、それからしばらくして森長直に領地替えの命が下ります。以降、長直の家は赤穂藩主森家となり、幕末まで続きます。

また、家祖森可成の弟である森可政(つまり森蘭丸や忠政の叔父)の系統で、津山藩家老を務めた森采女とその子孫は西江原、赤穂藩の家老を務め、また一門格として嫡男のない藩主長直へ婿養子を出し、2代藩主森長孝(采女実子)、3代藩主森長生(各務利直実子→森采女養子→藩主長孝養子)を輩出します。

先代藩主森長武の名跡を継いだ森主税(長武の弟・長基を祖)も赤穂藩家老として長直に随身します。しかし、幕末の動乱期に藩政改革を行った 可彜(よしつね)のとき、これに反する急進派の藩士らによって赤穂城門前で暗殺され、森主税家は断絶します。

三日月藩主 森家

森長継の3男・森長俊に、津山藩3代藩主森長武によって津山藩の中から1万5千石を分与して、独立することを許されます。津山新田藩という、領地を与えられながら政務は津山城内という、津山藩の支藩という立場となります。しかし、1697年津山藩改易に伴い所領を没収されることになります。このとき津山城にいた長俊は一部の家臣から幕府に抵抗をして籠城を勧められるも、江戸表において森家存続の嘆願が聞き届けられたとの報が届き、長俊は幕府に対して恭順の意を表するため、城を出て菩提寺の本源寺に入り謹慎します。こうして津山城の明け渡しは無事に終了し、その後改めて播磨三日月に同じ石高である1万5千石を与えられ、陣屋を築くことを許されます。これが三日月藩主森家です。

三日月藩主森家・歴代藩主と夫人の墓所
三日月藩主森家・歴代藩主と夫人の墓所

のちに3代俊春の時、幕府からの信任を得て、三日月藩周辺一帯の天領3万石のの管理を任され、家格は1万5千石のままですが、実高は4万5千石の藩として約40年間、藩の財政を助けることになります。

  1. 1649 - 1735

    初代 森対馬守長俊 (もり つしまのかみ ながとし)

    三日月藩初代藩主森長俊公ご尊像
百箇日法要の際に開眼供養されたという。
    三日月藩初代藩主森長俊公ご尊像
    百箇日法要の際に開眼供養されたという。

    初代藩主である森長俊は眉目秀麗で、頭脳明晰といわれた長俊は諸藩から婿養子の希望が多かったといわれるも、長継は長俊の才覚を森家に役立てたいと考え、万が一のスペアとして森家にとどめおきました。長武との関係も良好で、4代藩主長成によって疎まれ、家臣たちが長武の屋敷に近寄らなくなっても、長俊は毎月17日に長武の屋敷を訪ねては一日をともに過ごしたという。ある時、長武がなぜ同じ日に来るのか問うと、長俊は、「兄上、17日はあなたから領地をいただいた日です」と答え、これに感じ入った長武は、「これほど義理深い弟であったなら、1万五千石とは言わず5万石を進呈すればよかった」と答えた逸話が残ります。

    また、長俊は森の宗家の鶴丸紋を避け、替紋の五三桐を愛用します。しかし、五三桐は豊臣家を想起させることから多くの大名家は由来を濁したり避けるようにしていたところ、長俊は、「この御紋は豊太閤ではなく、兄上から賜ったものです」と江戸城内で大言し、これを聞いた伊達公は、「対馬殿は大大名も務まる器である」と評した。三日月藩江戸屋敷にて86歳で死去。唯一津山藩時代を知る森一門の長老であった。長らく鶴丸紋を遠慮していた長俊であったが、赤穂藩主森政房からの勧めもあり、葬られた池上本行寺の墓碑には鶴丸紋と五三桐紋が並べて刻まれた。

    森長俊廟の香炉に刻まれた二つの紋
    森長俊廟の香炉に刻まれた二つの紋

    以降、三日月藩では二つ紋を使い分けるようになった(写真)

    長俊院殿快翁日好大居士

    長俊の遺領は嫡男長記が継いで2代藩主となります。三日月藩森家はその後、明治維新まで藩主として続き、明治にになって従四位子爵を賜り華族に列せられます。

久留里藩森家

津山新田藩主森長俊の3男・森光俊(のちの光照)は2人の兄のスペアとして江戸屋敷において部屋住みであったが、槍の道場で知り合った舘林藩家老黒田直基の子、黒田三五郎と懇意になり黒田家に出入りをするようになって、やがて三五郎付きとして黒田家に召し抱えられる。

その黒田家は舘林藩主徳川綱吉の五代将軍就任によって大名となり、沼田藩、下館藩、そして久留里藩へと領地替えをする過程で、森家もこれに随身した。

最終的に久留里藩に落ち着いた黒田家で、森家は古参家臣の一家として永代家老を賜り、江戸家老や国家老の職を代々務めた。家紋は本家である三日月藩主森家に倣い、五三桐を基に光琳桐を定めた。鶴丸紋に復帰したのは明治になってからである。

  1. 1672 - 1712

    初代 森伊豆守光照(もり いずのかみ みつてる)

    久留里森家初代森光照肖像(江戸後期)
    久留里森家初代森光照肖像(江戸後期)

    津山新田藩主森長俊の三男として江戸で生れる。

    母は津山藩士伴氏の娘で、15歳の時に長俊の認知を受け、名を光俊とするまで庶子であった。大坪流馬術と佐分流槍術に長け、その縁で舘林藩家老黒田直相の嫡子黒田三五郎と出会い黒田家家臣となり光照と改める。のちに舘林藩主徳川綱吉が5代将軍となり、三五郎も黒田直邦と名を改めて大名に取り立てられて常陸国下館藩主なるや、光照は城代を命じられるが病に伏せ、嫡男光治の元服を待って隠居。療養をするも下館城にて没。江戸の浄心寺に葬られた。妻は水戸藩附家老中山備前守信治の養女定子。40歳没。勇厳院殿光照日應大居士

    なお、家傳によれば津山藩改易の折、祖父であり津山藩先代藩主・森長継から早馬があり、森家存続のため幕閣への願書の提出を求められ、主君黒田直邦に願い出るも、当時の直邦は綱吉の小姓頭であり、柳沢吉保を首座とした森家国除の審議に加わることはかなわなかった。

  2. 1690 - 1708

    2代 森五郎兵衛光治 (もり ごろべえ みつはる)

    光照の嫡男で江戸に生まれる。13歳のとき黒田直邦に召し出されて2年ほど小姓を務めるが、下館城代の父光照が病となり、小姓を免されて下館に赴く。18歳で元服し、家督を相続するが、その半年後、流行り病にかかり、下館城内で死去。江戸の浄心寺に葬られ、家督は弟の光仲が継いだ。18歳没。實明院光治日閑大居士。

  3. 1695 - 1766

    3代 森清太夫光仲 (もり せいだゆう みつなか)

    光照の三男として江戸に生まれる。黒田直邦に召し抱えられ、小姓や刀番を務めた。家督を継いだ直後に急死した兄光治の跡を継ぎ、物頭や弓奉行を務めた。祖父森長俊の葬儀・百箇日法要を与力し、伯父で2代藩主森長記より長俊公の御遺物備前長船祐定を賜る。旗奉行の時舘林城の在番を命じられた。その後、2代黒田直純が久留里へ領地替えとなり、久留里城の築城奉行、そして家老に任じられた。以来森家は代々家老を務める家とされた。老年になって歩行不自由となるや、藩主黒田直亨に城内で籠を用いることを許され、晩年は病に伏せた際は、藩主の御典医や三日月藩からも藩医が訪れるなどしたが、久留里にて没。久留里妙長寺に葬られた。その墓石は築城に用いた石材と鉛の蝶番を用いて作られ、棺は法華経を小石に一文字ずつ書いた一字一石の礼を以て埋葬された。71歳没。

    實證院光仲日淨大居士

  4. 1727 - 1804

    4代 森五郎兵衛光嶢 (もり ごろべえ みつあき)

    光仲の嫡男として下館城内で生れる。黒田直純に召し抱えられ馬廻番士となる。直純の大坂城加番や日光山代参に供奉し、物頭と寺社奉行、用人と進み、光仲の没後、家老となった。その後、黒田直亨、直英と仕え、直英が将軍徳川家治へ就任の挨拶を述べる際には江戸城に同道し、江戸城白書院で将軍に拝謁した。光嶢は高祖父である森長俊を敬愛し、政務の手本とするや、これを聞き知った三日月藩主森俊春は長俊の隠居号であった快翁を光嶢に許した。77歳没。妻は黒田直純の十二女・美喜。快翁院光嶢日感大居士

  5. 1742 - 1819

    5代 森清太夫光厚 (もり せいだゆう みつあつ)

    素襖装束を身に着けた森光厚の像(江戸後期)
    素襖装束を身に着けた森光厚の像(江戸後期)

    光仲の次男として沼田城に生まれる。植村佐兵衛の門下で大坪流馬術を極めて17歳で皆伝を得る。高田馬場、神田筋違に稽古場を設けて諸侯の子弟にこれを教える。その弟子のひとり松平信明によって将軍家斉の聞くところとなり、江戸城吹上馬場と浜御殿(現在の浜離宮)で馬術の上覧を賜り、黄金10枚と馬鞍一台を賜った。

    久留里藩では黒田直純に召抱えられ、小姓から刀番、取次役を務め、黒田直英の大坂城加番にも供奉。しかし、大坂城で直英が急死すると、その代役を務め交代役の大名・福島藩主板倉勝長に引き継いだ。また、大坂在勤中、高野山の森家菩提所・釈迦文院に詣で、180両を寄進。これにより赤穂藩主森忠賛より墨蹟を賜った。黒田直温の家督相続御礼で江戸城に上がる時も随行し、将軍徳川家斉に拝謁した。婿養子の光長に家督を譲るも光長の早世により再び家督を相続。このとき、将軍家斉から時服、老中で馬術の弟子松平信明からは棟梁の臣として和歌一首が贈られた。79歳没。

    子が無かったため、関宿藩主久世家の家老木下光政に嫁いだ姉、於栄の娘次女・於夕を養女に迎えた江戸浄心寺に葬る。妻は安房勝山藩の家老坂村庄左衛門の娘利世。光正院元雅日厚大居士

  6. 1773 - 1806

    森五郎兵衛光長 (もり ごろべえ みつなが)

    陸奥磐城平藩家老成田新賢の次男として江戸に生まれる。光厚の養女於夕(関宿藩家老木村家に嫁いだ光厚の妹の娘)と婚姻し、婿養子となり、用人を勤める。家督を相続して家老に任ぜられるも翌年江戸にて死去。嫡男に平吉(のちの光福)がいるが、1歳のため養父光厚の養育となり家督は光厚が再び継いだ。江戸淨心寺に葬られた。33歳没。德温院静淨日長居士

  7. 1805 - 1855

    6代 森清太夫光福 (もり つしまのかみ みつとみ)

    森光長の嫡男として江戸に生まれる。翌年に父光長が没したため、祖父光福の養育と祖母利世の教育を受けるが、15歳の時に祖父光福が死去し、嫡孫承祖として家督を継いだ。これにより、久留里藩における森家の家老席は空席となるが、1832年27歳で家老職に就く。寛永寺の勤番や大坂城の加番にも供奉し、大坂城では門限が来て閉じようとしている京橋門の門番に対し、大声で怒鳴りつけてこれを開けさせた逸話が残る。城内の出来事や諸大名との交際の記録、藩で行われる年中行事を取りめた森家諸留、森家の家譜である森氏家譜の編纂も手掛けた。51歳で没し、久留里妙長寺に葬られた。妻は関宿藩主久世家の一門、久世礒治の叔母鍈子。

    證淨院光福日養大居士

  8. 1824 - 1876

    7代 森格左衛門光新 (もり かくざえもん みつしん)

    久留里藩用人・芝山正善の四男として江戸に生まれる。武道に励み、種田流槍術、十方流剣術、荻野流砲術の皆伝を得る。森光福の娘於鋓と婚姻し婿養子となる。黒田直静に召し抱えられ、大筒奉行を務め、光福とともに藩兵を率いて九十九里浜の外国艦船の来航に備えた。幕末の動乱期では、味方を迫る幕府軍を抑えつつ、官軍へ着くことを重臣会議で決し、薩摩長州らの動きに与した。明治になると藩主黒田直養は久留里藩知事に、光新は久留里藩大参事となり、廃藩置県によって免官となった。53歳で没。久留里妙長寺に葬る。格應院光新日勇大居士

  9. 1848 - 1916

    8代 森 勝蔵光重(もり かつぞう みつしげ)

    光新の嫡男として江戸に生まれる。現在では勝蔵の通称で知られる。藩主・黒田直養に召し抱えられ、取次役を務める。幕府の命により薩摩藩邸を攻撃する際の砲撃取締役となり、官軍に与してからは輪王寺宮能久親王(のちの北白川宮能久親王)の上洛を助ける。明治9年の秩禄処分によって全国の藩士が禄高を没収された。明治になってからは旧藩主黒田家の御用掛かりとなり、江戸下屋敷(現在の椿山荘)を山形有朋公爵へ譲渡の橋渡しをする。この縁により山縣家に仕えることとなり、そのうちの1年を山縣家の伊佐野農場(栃木県矢板市)で管理人として過ごし、伊佐野農場図稿を執筆。山縣有朋の評価を得た。その後、帰京して有朋の推挙により内務省地理局の要職に就く。黒田直養子爵の命を受け、旧藩時代の藩政について取りまとめるよう銘を受け、久留里藩制一班、雨城廼一滴、雨城の夢、南総實記、黒田家臣傳などの著作を残した。68歳没。東京深川の浄心寺に葬る。竹喜院光重日眞居士

  10. 1866 - 1923

    森 勝太郎

    勝蔵の嫡男として江戸に生まれる。繊維業の会社を興し主に大阪と東京を行き来する生活を送る。明治末年父勝蔵がかつて橋渡しをした旧久留里藩下屋敷の土地について、山縣家より藤田男爵家に譲渡をしたい内意を勝蔵が受け、大阪滞在中の勝太郎が勝蔵の代理で大阪京橋の藤田家へ取次をする。(大正7年、陳山荘は藤田家の所有となる)東京で没し、深川淨心寺に葬る。55歳。顕孝院勝道日法居士

  11. 1852 - 1884

    9代 森 忠蔵

    光新の三男として久留里に生まれる。黒田直養に召し抱えられ小姓を務めるが、直後に廃藩。父光新の許で部屋住みとなる。森家では明治19年に久留里城三の丸の家老屋敷を処分することとなり、兄勝蔵は東京へ移り、忠蔵は屋敷の家財を受け継ぎ、家禄の旧領であった怒田の田畑地に居を移すが2年後に病没。32歳。久留里金福寺に葬る。子が無いため、叔母光新の妹於松の五男・丑之助(波多野文治)を養子に迎える。妻は旧藩士波多野氏の息女八重子。髙忠院清香道照居士

  12. 1865 - 1931

    10代 森 丑之助

    森光福の次女・於松の嫡男・波多野文治の5男として生れる。森忠蔵の養子となり、忠蔵の死後、家督を継いだ。日清戦争に従軍。帰郷後は、農業に従事した。66歳没

    久留里金福寺に葬る。妻は田中多助の長女すみ子。寶興院法壽常樂居士

  13. 1894 - 1984

    11代 森 善太郎

    丑之助の嫡男として生れる。父丑之助の農業を引き継いで営む傍ら、海軍への志を以て、木更津海軍航空隊へ勤務する。昭和13年には海軍航空隊を視察に訪れた昭和天皇に千葉県知事、久留里町長とともに拝謁した。戦時中は木更津基地に勤務し終戦を迎えた。戦後は農業に専念するも、三男茂の競馬事業に参与し、農地の一部を売却して町原競馬場設立の事業へ投じた。90歳没。妻は監物古登。明德院壽寶善道居士

  14. 1925 - 1983

    12代 森 茂

    森善太郎の三男として久留里に生まれる。

    幼少時代より馬に関心を持ち、昭和初期、すでに車もある時代でありながら久留里の町内を馬で歩く姿は町中でよく知られることとなる。昭和16年、地元の有力者らの誘いを受け、町原競馬場の設立に学生で参加。自らは騎手として活躍したが、数か月後に真珠湾攻撃があり大東亜戦争が開戦、競馬は娯楽のものとして自粛の対象となり、競馬場は放置された。

    戦後後に再開するも、昭和21年の競馬法施行により民間運営や私設競馬場は廃場命令が出され町原競馬場は閉鎖。騎手と所属馬は柏競馬場(現在の豊四季)に合流することとなり、競走馬は柏に運ばれた。

    その後、地の利が悪く、集客に難があった柏競馬場を移転することとなり、代替地を船橋の埋め立て地に定めるも資金が足らず、柏競馬場を経営する千葉県畜産組合連合会は森家、高松宮宜仁親王の紹介を通じ、川崎競馬倶楽部と読売新聞の社主である正力松太郎(当時は公職追放中)へ呼びかけた。

    そして川崎競馬倶楽部による用地の買収により、船橋競馬場の設立柏競馬場の移転が実現した。この時28歳。開業式には高松宮同妃両殿下の御成を賜った(実際には開業日悪天候によりお取りやめとなり、翌年競馬場内に開設したオートレース場の開場式に御成を賜った。オートレース場はその後、新海岸埋め立て地へ移転)

    柏から船橋への移転を実現させた茂だが、父の勧めにより事業経営への参与はせず、馬に接する仕事を選んで森厩舎を創業。これが現在株式会社よみうりランドが所有する船橋競馬場の所以である。当時最初に船橋競馬場に開業した厩舎は4家。(森・伊藤・高松・函館)これらは現在も千葉県で最も古い厩舎となっている。

  15. 13代 森 始

    森茂の嫡男として船橋に生まれる。

    昭和58年森茂の死去により、13代当主として家督を相続。

    森茂の厩舎(1983年死去により解散・1986年開業)を引き継ぎ、現在に至る。

  16. 継嗣  森 勇己(宗勇)

    森茂の三男・森勇の嫡男として船橋に生まれる。

    2012年、父勇の死去により森家継嗣となる。

     

Family Tree

系図

分家を含めた系図です。画像を押すと大きく表示されます。

森家系図

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