森 宗勇 MORI SOYU

藩祖の墓

久留里藩の初代藩主は黒田直純なおずみ公。しかし、大名家としての初代はその養父である黒田直邦なおくに公で、久留里藩の二代藩主は直邦公の長男が相続した。このため直邦公を藩祖として祀る。

埼玉県飯能はんのう市。黒田家ゆかりの地とされる。

直邦公は、武蔵七党の一つ丹党たんとうの末裔であった中山氏の出身で同地は丹党の本拠地であった。戦国武将の黒田官兵衛でしられる福岡の黒田家と誤認されることが多いが、このように全く別の系統であることは前稿でも述べた。

宝永四年(一七〇四)常陸下館城主であった黒田直邦公がこの地域で新たに飯能・久下分くげぶんしん能寺のうじむら・中山の四か村を賜り、五千石が加増されたとある。下館藩の石高は一万五千石で、この時から黒田家は二万石の大名となるが、享保十七年(一七三二)に沼田藩三万石へ転封。二代直純公の時に久留里に転封し、以降幕末まで黒田家は三万五千石の大名家となる。

久留里の黒田家は関ケ原の戦いを知らない新しい大名家ではあるが、その出自は決して新しくはない。黒田直邦公は旗本・中山直張の三男に生まれ、幼名を三五郎と称した。丹党末裔の中山氏は德川家康の命によって要職を任された大身旗本で、その一族には水戸德川家の附家老もいる。のちに母方の祖父で直邦公の養父となる、黒田もちつなは家光の次男・德川綱吉の家老であった。中山氏・黒田氏両家の血筋をもつ、幕府の官僚としては適任の人材であった。

沼田や久留里からも遠いこの地を拝領したのは将軍綱吉と近かった直邦公のこと、特にお願いをしてのことかも知れない。念願の飯能を手に入れた直邦公は、先祖中山家勝が建立した能仁寺に五十石を寄進して再興した。久留里を訪ねる方から、「黒田のお殿様のお墓は久留里には無いのですか」と聞かれる事がある。だが、当地にあるのは最後の藩主である黒田なおなか公のみだ。これは当時の慣習で最後の藩主は歴代の墓所に入れないという考えがあったからである。

最後の将軍・德川慶喜が日光山でも増上寺でも寛永寺でもない、谷中墓地に入っているように、家を潰した人間として先祖に顔向けできないとする贖罪の意味が込められていると昔、地元の古老から聞いたことがある。

能仁寺の黒田家墓所は大別して二か所あり、一つは背後にある多峯とうの主山すやまの山頂に築かれた、藩祖・黒田直邦公の墓所である。小一時間の登山を要する山頂に巨石を置いて飯能一帯を見下ろす。もう一つは、本堂裏手の高台に並ぶ墓石群で、こちらには二代直純公以降、九代直和なおやす公までが並び、すべて飯能市の指定文化財。天明六年(一七八六)に大坂城の加番、すなわち大坂城警備で大坂在城中に亡くなった四代なおひで公も、塩漬の棺でここに運ばれてここに埋葬された。大坂からの葬送は当家の六代・森みつとみが指揮しており、その時の記録は当家に詳しく残っている。また、直和なおやす公のみ神葬で祀られているが、その墓標は歴代からやや離れた場所に質素な形で建てられている。明治九年(一八七六)に没した直和公は幼い直養公に藩主の座を譲ってはいるが、これは大政奉還の前の年であり、実質的には最後の藩主にも等しい立場であった。これも歴代藩主に対する遠慮であろう。

過日、十年ぶりに訪ねたその日は好天に恵まれ、高台にある黒田家の歴代墓所からは東京タワーも見えた。当時の藩士たちはここからお江戸が見えることを知っていただろうか。実は東京タワーのトップデッキからは、この近所にある西武ドームが見えるのだが、さすがにお江戸から飯能のお山は見えなかっただろう。

寺社奉行から奏者番そうじゃばん(将軍の儀礼を担当する職)を経て西丸老中まで勤め、柳沢吉保と並ぶ德川綱吉の側近として、幕閣で活躍した黒田直邦公は、筆者の家である久留里森家が仕えた最初の主君となる。蛇足ながら森家の家伝によれば、中山三五郎ぎみだった時代の直邦公へ佐分利さぶり流槍術のお相手役として仕えたのが、久留里森家の祖・みつてるだった。毎年米一八〇俵を賜ると記されている。

光照は美作津山藩の支藩・津山新田藩主(一万五千石)である森長俊公の三男で、長兄の長記ながのり公は二代藩主に予定され、次兄の長廣は親類の新見藩主関家(一万八千石)を継ぐこととなっており、光照までお鉢が回る見込みはなく、小禄だが德川家に近い中山家への仕官は歓迎されたことだろう。直邦公と光照はお互いに歳も近く三男であり、境遇が似ている。

一方で主君の三五郎ぎみが館林藩の黒田家へ養子が決まり、直邦公となられた頃、将軍家では大きな出来事が起きる。将軍家綱が嫡子を残さないまま危篤になったのである。神君家康の遺訓に従い、尾張や紀州から後継者を出すとする手続きが進む中で、一転、実弟の綱吉が将軍家を相続することと決まる。綱吉は幼君の徳松を舘林藩主とするや江戸城に入り、兄家綱を看取る。その後、江戸城に随行した家臣たちが大名となり、飛躍の大出世を遂げていくのである。

儒学を好み、学者肌で政治的野心を持たなかった直邦公は比較的諸大名とも良い関係を保っていた。対して、側用人として大老に近い権勢を揮った柳沢吉保は、先祖ゆかりの地・甲府の十万石まで拝領するも、綱吉亡き後は政権中枢から外され、奈良は大和郡山に転封となる。

幕府の公式史書であるじょう憲院けんいん殿でん御實ごじつによると、宝永六年(一七〇六)正月に綱吉が江戸城中で急死した際、厠で倒れる綱吉の体を直邦公が後ろから抱きかかえ、駆け付けた医師に脈を測らせた。直邦公が様子を尋ねると、既に脈は絶えていると医師。御實紀では直後に吉保が駆けつけたとあるが、直邦公が確認しているように、吉保は臨終に間に合わなかったようだ。

綱吉の没後、吉保は側用人を辞職、直邦公は小姓を解任されながらも六代将軍家宣、七代将軍家継に仕え、八代将軍吉宗の信頼を得て奏者番、寺社奉行を歴任、所領も沼田藩三万石へ移され、継嗣家重の教育係として西丸老中を勤めた。家重は言語障害があったといわれ、聞き取れるのは直邦公ら一部の側近に限られた。

享保二十年(一七三五)三月、病を得て危篤状態となったとき、とくにより江戸城に保管されていた高麗人参が吉宗より贈られたが、上様の大切な人参であるからと、これを送り返させている。それから数日後の三月二十六日の夜四ツ時、江戸神田橋の藩邸で死去。享年七〇歳。二十八日には将軍吉宗と家重から香典が贈られ、遺骸は三十日に藩邸を出棺、翌、うるう三月一日に菩提寺である飯能の能仁寺に到着し、葬儀等を経た閏三月十八日に能仁寺裏の多峯とうの主山すやまの頂に葬られた。山の斜面を活用し、儒教思想を取り入れた墓で、埋葬地点には自然石を置いて石の柵で囲み、斜面を削り墓石を見下ろすように置いた。これにより、参詣者が石垣を介し、座する霊柩を正面から拝める姿で埋葬する。

これは二代直純公の意向を受けたもので、藩祖として末永く一族の鎮護とする願いが感じられる。諸大名のみならず、学者仲間をはじめ、多くの文化人がその死を悼み、墓所の傍には太宰春台の書になる頌徳碑が立つ。そのご戒名

萬松院殿故中太夫捨遺兼豊前州大守丹治眞人関鐵直邦大居士

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