2021.03.01
弘文天皇陵の謎
上総国は、親王任国といわれて他国とは一ランク高い国名であったことは以前お話したと思います。今回は、その上総国に天皇陵があったかもしれないというお話。
もともと房総半島は古墳が多い地域として知られていますが、その多くは豪族の墓であり、都から遠いこの地に天皇が埋葬されたとするのはあまりにも非現実的なお話かもしれません。しかし、明治の時代にここに天皇が埋葬されていたとする説がありました。
明治十四年(一八八一)この説を主張し、その調査に関わったのは、私の先祖の一人である森勝蔵という人物で、当時三十二歳。
勝蔵は旧久留里藩家老森家の八代当主で、藩校、すなわち藩立の学校である三近塾の句読師をつとめ、幕末は寛永寺戦争で戦い、廃藩置県後は久留里県の権大参事、その後は山縣有朋に仕えて旧藩邸の売却や山縣家の農場管理を務め、その後は調査力を買われて内務省地理局に勤務。郷土史家としても知られた人でした。当家に残る資料に、弘文天皇陵治定一件という書類があります。これは後述する宮内省への上呈書類の控えであり、実は一五〇年前までは、弘文天皇という天皇は実在しない天皇でした。なぜなら、天武天皇と皇位を争い、敗死した大友皇子その人だったからです。前稿で私は、上総国に落ち延びてきた大友皇子が、のちに天武天皇となる大海人皇子の追手に攻められて自害された、壬申の乱についてのお話を書きましたが、「弘文」天皇という名前は、それから千二百年も後の明治に付け加えられた称号でした。それ以前の世の中では、非公式な呼び方として大友天皇と記す書物もありました。
この頃、江戸幕府が大政奉還をして、日本の世の中は天皇を中心とした新しい政府が担うようになります。この時、天皇というものを神格化させ、諸外国に対して神聖な存在であることをアピールする必要がありました。そこで明治三年(一八七〇)日本の歴史を見直し、間違いを修正しようとする動きがあり、壬申の乱もそのひとつでした。国旗の「日の丸」が制定されたのもこの年です。
天智天皇が崩御し、本来であれば皇位は息子の大友皇子が継承するところを、臣下の者となっていた叔父の大海人皇子が新天皇に反逆し、天皇を滅ぼした上で天武天皇として皇位を継承してしまう。日本史上唯一の例となってしまった。あまり美談とは言えない話です。そこで、水戸藩が編纂した大日本史などを参考に、大友皇子の事績を正しく見直すことになりました。見直すといっても、起こった出来事をガラリと変えるわけではありません。正統な皇位継承者であった大友皇子を歴代天皇として数え、天智天皇の崩御から、天武天皇の即位までの約半年間を在位期間として、大友皇子を第三十九代・弘文天皇としたのです。歴史は勝者側の支配によって記されるのが常ですから、記録上で即位をしていないことになっている大友皇子は、千二百年の時を経て正式に天皇となったのです。
さて、日本史上でも著名な壬申の乱ですから、大友皇子が葬られたとされる場所は全国に伝承地がありました。その一つが君津市の俵田にある白山神社古墳です。白山神社は大友皇子が滞在した小川御所があったとされる場所に創建された神社で、以前は田原神社という名前でした。またこの古墳の別名は小櫃山といい、大友皇子はここで自害され、小さな櫃に収められて埋葬されたと伝えられます。これが、当地の地名である小櫃の由来となっています。つまり明治三年の政府方針により、この古墳が一躍弘文天皇陵ということになるはずでした。千葉県唯一の天皇陵の誕生です。
時代はすでに明治でしたが、旧久留里藩主・黒田家の命を請けてこの地域の歴史をまとめていた森勝蔵は、ここを天皇陵として宮内省に認めていただくべく、活動を起こします。まず、勝蔵によって纏められた弘文天皇陵の治定に関する資料は「弘文天皇御陵考証」と題されて宮中へ上呈され、宮内省によって白山神社裏の古墳について調査をしていただくように請願します。同時に宮中と深い関わりを持つ華族への働きかけも行います。勝蔵の母、鋓が書道を通じて親しくしていた長谷信篤子爵に相談をしたところ、大変な賛意を得て、長谷子爵が会長を務める大日本選書奨励会の機関紙へこの運動について連載しようではないかという動きもありました。この機関紙は定期的に刊行され、明治天皇もお手に取られるため、その紙面で度々紹介されれば、両陛下の御諮詢を得られるかもしれないと、宮中の最奥まで響かせようではないかと画策します。しかし、勝蔵は「確証は得ているが、まだ調べは終わっておらず、そこに粒ほどでも誤りがあれば、それはお上に対し畏れ多いこと」として勝蔵はこれを辞退します。当家に残る長谷子爵の書簡には、そんな想いを書いた勝蔵の返信草稿が残ります。
しかし、そんな勝蔵の控えめな考え方とは裏腹に、世の中の動きはとても俊敏でした。
その一つに、滋賀県大津市には大友皇子の首を検分し、葬ったという場所が園城寺亀丘古墳という名で残っており、まずそこが手を挙げたのです。そのうえ、その検分にまつわる記述は日本書紀にも残されていたことから、岩倉具視らの賛意も得て、宮内省はここを「弘文天皇陵」として治定します。今の長等山陵です
困った勝蔵は、東大や学習院の教授陣にも呼び掛けて、明治三十一年(一八九八)から数回に分けて、白山神社古墳の発掘調査が行われました。中でも東京帝国大学教授で人類学者の八木奘三郎博士の一行による発掘調査では、陪冢といわれる、副葬品を収めた周囲の小円墳から直刀や鏡、勾玉などの宝物や陶片が出土させました。これらは三種の神器と同じ形式であり、さらにこの古墳が奈良時代から平安初期と推定されたことにより、白山神社古墳こそが弘文天皇陵の証左であると、そして大友皇子は、父である天智天皇から伝わった神器を奉じて上総へ逃れたに違いないと、勝蔵らは色めき立ちます。発掘現場には華族の方々も多く視察に見えられ、地元の新聞はこぞってこの状況を取り上げました。しかし、宮内省は西暦六七二年七月二十二日の瀬田橋の戦いに敗れたことがきっかけとなりその翌日に自害したと伝えられる大友皇子であるから、瀬田橋があった滋賀県大津市のあたりで亡くなったとするのが自然とし、長等山陵の御陵説を変えませんでした。
戦後、千葉県と君津市によって改めて白山神社古墳の発掘が行われます。その際の出土品や古墳の形状から、作られた時代は大友皇子よりも二百年ほど古い四世紀のものと判明し、地元の有力者の墓と推定されました。
しかし、宮内庁書陵部には今も勝蔵の記した「弘文天皇御陵考証」が残り、そして白山神社では、「大友天皇」の御守本尊や、御真影、ご遺愛と伝わる鏡・薙刀、太刀が伝わると、明治四年当時の神主によって記録され、江戸時代に建てられたその拝殿には菊桐の紋が配されています。これらは、この地が大友皇子ゆかりの地として大切に崇められていたことを表しています。