2020.09.01
上総国というところ
上総国は大変多くの古墳が残る地域としても知られます。神話の時代から注目されてきた重要な地域であったことは前稿にてご紹介したとおりです。
今回はその時代から三百年くらい下った、飛鳥時代のお話。聖徳太子が亡くなって間もないころの事です。
天智天皇の第一皇子として知られた大友皇子は、皇太子として皇位を継承する立場にありましたが、大友皇子が生まれる以前から、天智天皇の弟、大海人皇子が長らく皇太弟として皇位の継承を約束されていました。しかし、大友皇子が誕生し、成長するにつれ、天智天皇は我が息子である大友皇子を大臣に取り立て、やがては自分の後継者である天皇に育てたいと思うようになります。これを知った大海人皇子は、皇太弟の地位を譲って都を去り、出家して奈良の吉野山へ移ります。
これによって大友皇子は皇太子となりますが、天智天皇が崩御すると、大海人皇子が再び皇位の継承を主張し、西暦六四二年、ここに古代日本史上最大の内乱とされる壬申の乱がおこります。
まだ二十四歳と若く、人脈も乏しい大友皇子はどうすることもできず、乱の勃発から約一か月ほどで自害をしてしまいます。大友皇子の首は速やかに大海人皇子の許に届けられ、その首が大友皇子であることを信じ、勝利を宣言した大海人皇子は皇位を継承して、天武天皇となります。それまでの天皇は「大王」と呼ばれていたのに対し、天武天皇は自ら「天皇」と称した最初の人といわれています。学校の教科書でも紹介される壬申の乱は、わずか一か月で収束をしますが、その結末はなんと反乱の勝利という形で終わりました。
ですが、悲劇の皇子となった大友皇子の逸話はこれで終わりません。実は大友皇子の自害はフェイクで、逃げて落ち延びたとする説があるのです。その場所がこの上総国でした。
大友皇子の一行は大海人皇子の追手から逃げて、現在の君津市俵田にある白山神社あたりを「小川御所」と称して暮らしていたところ、大海人皇子が差し向けた追討軍による急襲を受けて、ついに死亡したとされます。周辺の同市戸崎には、大友皇子の家臣であった七人の侍を葬った「七人士の墓」が存在するほか、皇子とともに上総に落ち延びたとされる蘇我赤兄を祀った飯綱神社が同市の末吉にあります。
また、大友皇子の妃、耳面刀自は藤原鎌足の息女といわれ、上総国で亡くなり、現在の旭市にその墓所が伝えられています。しかし耳面刀自は、大友皇子の落ち延び説とは異なり、皇子の没後、父の鎌足がゆかりとしていた鹿島を目指して海路を下り、九十九里浜にたどり着いたのち、この地で亡くなったといわれます。
この皇位を争った壬申の乱、悲劇の人は大友皇子だけでなく、悲劇のヒロインも存在しました。大友皇子の正妃とされる十市皇女です。
天武天皇と歌人で知られる額田王の第一皇女で、つまり大友皇子とは従兄妹同士でした。
大友皇子の没後、姫は天武天皇となった父のもとに身を寄せますが、日本書紀によれば、天武天皇の即位から七年後、突然病によって死去するとあります。天武天皇は声をあげて泣いたとされますが、毒殺や自害の可能性も否めない出来事として今に伝わります。
壬申の乱の後、大友皇子は天武天皇側によって一旦は歴史の舞台から葬り去られます。天智天皇の崩御から、天武天皇の即位まで一か月ほどしかない大友皇子は、皇位のしるしである三種の神器を継承して即位をしていたのかも謎であり、皇位の簒奪とも受け取れる大海人皇子の即位もあって、長らく歴代天皇には加えられていませんでした。どこに葬られたのかなども判りません。きっと、後世の崇拝対象となることを恐れて、天武天皇も認めなかったでしょう。
しかし、天武天皇が崩御すると、皇后がその跡を継ぎます。持統天皇です。聖徳太子を摂政に迎えたことで知られるこの著名な女帝は、皇族を集めて次の天皇になるべきものについて、意見を求めます。この時、強く手を挙げた者がいました。大友皇子と十市皇女の間に生まれた葛野王です。葛野王は直系の子孫が皇位を継承するべきであると説きます。天武天皇には複数の皇子があり、それぞれが皇位を希望していたいことから、皇子達はそれを阻止しようと、王の発言を遮ろうとします。しかし、王に一喝されると、それ以上の抵抗をやめ、結果、天武天皇と持統天皇の第一皇子であった、草薙皇子の遺児・珂瑠皇子を皇太子に擁立します。天智・天武両帝の孫でもある葛野王の後ろ盾を得た珂瑠皇子はのちに文武天皇となり、持統天皇とともに葛野王を大切に遇したといわれます。
このように悲劇の最期を遂げた大友皇子の亡き後も、その家族は皇室の一員として重要な役割を果たしていたことが窺われます。
大友皇子が歴史の舞台から降りてから約千年後。今度は水戸黄門でしられる徳川光圀が水戸藩に於いて編纂させた大日本史によってその名前が陽の目を浴びることになります。
のみならず、光圀は大友皇子を天皇として記したのです。これは一か月とはいえ、大友皇子が皇太子として正当な皇位継承者であったことを史実として認定した最初の例でした。
さらには千二百年後の明治三年、江戸幕府から政権を引き継いだ明治新政府は天皇を中心とした新国家を建設するという旗を挙げていました。したがって、日本全国から様々な学者を呼び集め、「万系一世」である天皇家の正当性を裏付けるための調査に乗り出します。
そこで、天智天皇の崩御から天武天皇の即位までの間に生じた皇位の空白を埋めるために、大友皇子を事実上の天皇として認め、第三十七代・弘文天皇として追号することになったのです。つまり大友皇子はその死から千二百年たって、初めて公式に天皇であると認められたことになります。この時すでに大友皇子の墓所はいくつか候補がありましたが、天皇陵でなかったこともあり曖昧なものとされていました。これも伝説にすぎないのですが、岐阜県関ケ原町にある亀丘古墳は大海人皇子が検分した首を葬った場所と伝わり、日本書紀に記された内容とも裏付けされたことから、岩倉具視らの進言によって明治十年六月、亀丘古墳は宮内省によって「弘文天皇陵」であると正式に治定されました。しかし、現代ではその説を疑問視されており、大友皇子の墓所は今も謎に包まれています。
その、大友皇子の墓所説を色濃く示す場所が上総国にもあります。それが先ほど述べた君津市俵田にある白山神社です。そこに在ったとされる「小川御所」は大海人皇子の追手に襲撃されて殺害された場所といわれており、その場所こそが「弘文天皇陵」であるとして、一つの運動が起こります。森勝蔵による弘文天皇陵治定運動です。次回は、大友皇子がほうむられたとされる白山神社と、弘文天皇陵についてお話をしたいと思います。