2025.03.01
お殿様の家督相続 ②
実子がいない大名の場合、養子縁組をすることによって家督を相続させることができますが、それは成人する十七歳に達しないとできない手続きでした。未婚で将来もある子供が養子をとるという道理が無いからです。と言って跡取り決めないで亡くなれば藩主は不在となり、家は取り潰し。数百いる家臣とその家族は浪人となり、路頭に迷うこととなります。それを防ぐために家臣たちは、藩主の没後に、生きていることにして養子縁組の手続きを行おうとします。これを急養子届とか末期養子と言います。その際に候補者が複数いたりすると、家臣の間で争いになり、お家騒動となります。そのため江戸に幕府が置かれた当初は末期養子は禁じられており、厳格なチェックが入り、大名の改易や、良くて石高半減などの処置がとられました。
その失敗例を一つ、紹介しましょう。
森家が黒田家に仕官をした頃のことです。
本家である津山藩主森家では五代藩主森長成公が二十七歳でご薨去。お子はいませんでした。生類憐みの令に絡み、将軍綱吉に十万坪の犬屋敷を江戸の中野村に作らされた直後の事でした。薨去の直後に、重臣たちによって長成公の叔父にあたる、家老の関衆利を養子とする旨届け出て、幕府に認められてから死去を届け出ました。
一旦は成功したかのように見えたのですが、
肝心の衆利が相続を拒み、津山から江戸に向かう途中の桑名で事件を起こし家臣を斬り付けます。森家は外様大名。桑名藩は親藩ですから、自分の領内で事件があれば、通報も致し方ありません。
これによって森家は跡目相続不能とされ、十八万石は没収され、無嗣改易となりました。末期養子の失敗例と言えます。
しかし、森家と親しい細川家や、遠戚の加賀前田家の陳情を受け、幕閣にいた黒田直純公らも森家の救済を試みますが、最終的に大老格であった柳沢吉保の意向が受け入れられ、本家は改易。分家は領地替えの上、存続を許されるということで決着しました。この分家が幕末まで続いた赤穂藩主森家と三日月藩主森家です。
このように、死後に後継者を指名する急養子届の作成は、現代日本の遺言状としてはあり得ない事ですが、その後、幕府にとっても浪人が増えて国内治安を悪くなるのを恐れ、この形式の家督相続を黙認するようになっていきます。
では、久留里藩主五代直温公の末期養子を紹介したいと思います。前稿では仮養子の事をお話しましたが直温公もまた、十七歳となって、将軍から領地の久留里に帰ることを許された際、仮養子というの手続きをしています。仮養子とは
(私には子供がいないため、帰国中に万が一のことがあった際は、叔父の十五郎を跡取りとしたく、養子の手続きをしていただきますようお願い申し上げます)
この封印書状を江戸を出立時に老中に差し入れ、江戸に戻り次第手紙の返却を受けました。
その翌年の事です。
享和元年七月十五日、江戸城へ登城をする定例の日。気分が悪くなり、江戸城を早退します。そのまま藩邸で病床に就き、わずか十日後の七月廿四日、ご薨去。病死でした。
直温公にはまだお子様がいません。
しかも、仮養子届は返却された状態で、現時点では幕府内では有効ではありません。
ここで重臣たちは急養子届を試みます。
直温公の従兄弟である老中・松平信明に書状を送り、
「ウチの殿様は具合が悪く、この数日臥せっています。万が一、万が一ですがこのまま亡くなってしまったら、昨年提出した際の仮養子届に記した十五郎様を後継者にしたいと思いますがどう思われますか」
死去当日に届けられたその内容に信明もまた緊急であることを察します。そして、了解した旨の返書を久留里藩邸に送り返しました。こうして久留里藩は判断をするキーマンの一人、老中を取り込むことに成功します。
急養子の届け出は直温公本人の自筆でなくてはなりませんが死亡後の為、直温公の口述を記すというテイで、祐筆(秘書)によって、
「私、予てより喘息がひどく、加えて、癪の痛みがひどい状態です。子供のころからなので、かかりつけの医師に薬をもらい、何とか落ち着きましたが、腹痛と体の浮腫みがひどくなってきており、医師を二人ほど変えて診察してもらっていますが、日増しに疲れも出てきています。万が一、私が亡くなるようなことがあった場合は、昨年久留里に帰国した際に提出しました仮養子届に倣い、叔父の十五郎を跡目といたしたく、この事よろしくお願いします。」と書かれます。
そして、署名はできないので、「手が震えるので印鑑でお許しください」と記して印鑑を押します。早い話が、完全に偽造です。
この書状には三人の医師の名前が出てきており、彼らに対しても口裏を合わさせているのは明らかです。
八月十一日、直温公の代わりに従兄弟である駿河田中藩主本多正意がこの書状を携え、江戸城へ届けます。これを受けて、幕府では判元見届けという、監査の役人を久留里藩邸へ派遣します。この時は大目付の井上利泰が来宅します。しかし、利泰もまた事情を心得ています。既に根回し済みなのです。
本来の監査は、病床の藩主の枕元に伺い、書面を示し、ご自身が書いたものであることを認めさせる手続きですが、もちろん出来ません。既に死後二週間が経過しており、加えて真夏の事ですから、納棺され、防臭のための香も焚かれている状況であり、利泰もご寝所までは入室しますが屏風で覆われた向こうへは立ち入らず、屏風越しにお声をかけて、返事が無いので「大和守殿(直温)は眠っておられるようだ」ということで幕閣へ報告し、手続きは終わります。
その翌日、改めて死亡の届け出が出されました。御年十八歳。養子となった黒田十五郎様が六代藩主・黒田直方公となられます。
黒田家の家譜では七月二十四日が御命日。
幕府に届けた死亡届は八月十二日。
江戸幕府の公式記録である文恭院殿御實紀では八月十六日死去と記されています。
一方、新藩主・直方公にも手続きが残っています。留守居役である森光厚(当家四代)が死亡届を出した翌日、八月十三日に月番老中の安藤対馬守に呼ばれます。そして、死亡が受理された場合は新藩主に服喪期間が指示されることを伝えられます。
八月十六日、幕府に於いて正式に直温公が亡くなったことを受理し、直方公にはこの日から五〇日間の服喪による登城停止が伝えられます。
十月十一日、服喪が明けた直方公は初めて江戸城に上がり、老中方へ初めて対面してご挨拶を済ませます。
そして十月十六日、直方公は福島藩主板倉勝長に付き添われ、江戸家老の森光厚、用人の戸川久軌を引き連れ、江戸城白書院に於いて将軍家斉に拝謁。この板倉勝長は前稿九話で登場した、直英公没後の大坂城加番にあたった後任の大名でもあります。
十二月には将軍家斉より鷹と雁を拝領し、従五位下豊前守に任じられます。
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