2026.03.01
椿山荘と久留里藩

昨年の十一月、椿山荘に歴代の所有者が集い、記念植樹が行われました。
歴代の所有者とは久留里藩主黒田家、明治の元勲山縣有朋公爵、そして関西の財界で名を馳せ、現在のホテル椿山荘の源流である藤田平太郎男爵です。
椿山荘という名前は、椿山という地名から来ています。江戸時代以前から目白崖線の上に位置する関口台の一帯は椿の名所として知られていました。
江戸時代は舘林藩士で三千石の重臣・黒田用綱の屋敷として、それを受け継がれた養子の黒田直邦公は後に徳川綱吉の側近となり、常陸下館に一万石を得て大名となり、この地を下屋敷とします。直邦公の後を継いだ直純公の時代になって、上総久留里へ転封となり、以後、久留里藩下屋敷として名前が定着します。
当時館林藩主であった綱吉は、四代将軍家綱の後継者に指名されます。とはいえ、綱吉はほとんど江戸に定府でしたから、その側近たちも舘林と江戸にそれぞれ屋敷を持っていました。幼い実子にとりあえず舘林藩主を譲り、自らは江戸城に入りますが、その時に連れてきた家臣が、その後に幕閣で活躍をする柳沢吉保や、黒田直邦公でした。
直邦公が将軍綱吉から1万石の加増を受けて大名となったのは元禄九年(一六九六)のこと。しかし、元禄2年(一六八九)の江戸図鑑綱目を見ると、そこには黒田信濃守と書かれています。信濃守とは直邦公の義父にあたるで舘林藩士黒田用綱のことですが、用綱は寛文十二年(一六七二)に亡くなっているので、絵図には旧称で残っていたのでしょう。舘林藩主時代の綱吉は、ほとんど定府で江戸住まいでしたから、その側近たちもこのような具合で舘林と江戸にそれぞれ屋敷を持っていました。
現在椿山荘の場所に、黒田信濃守と書かれていることで、ここが綱吉が将軍になる前から黒田家の土地であったことは確かです。直邦公は大名となったとき、旧来の大名家に追いつくべく、また見劣りしない迎賓施設として、義父が残したこの土地に目をつけ、贅を尽くした庭園を作ります。江戸の郊外地とはいえ、三千石の藩士が持てる土地には限りがありますので、周辺地を手に入れて大きく広げたものと思われます。隣地には幕臣・神尾若狭や曽我伊賀守、道を挟んで常陸下館藩主増山兵部といった名前がみられますが、神尾も曽我も舘林藩に縁のある人物であることから、舘林藩から支給された土地と考えられます。この両名の名は元禄十二年(一六九九)の絵図になると消え、黒田豊前守という一筆に代わっていることから交渉の末に土地を広げたのでしょう。
現在の椿山荘の隣地には永青文庫という、肥後細川家の江戸屋敷跡がありますが、元禄2年の図面に細川家の名前はありません。
同じころ、直邦公と同じく舘林藩士から幕閣に入った綱吉の寵臣・柳澤吉保は、元禄8年(一六九五)に駒込は染井の地を拝領します。まだ原野であったこの地に庭園を造り、六義園と名付けます。
直邦公の造園がいつ始まったかは定かではありませんが、柳澤吉保の六義園とそれほど時期は離れていないのかもしれません。
現在椿山荘といわれる黒田家の下屋敷庭園は、そうした経緯で作られた大名庭園でした。時は元禄時代。江戸時代で最も平和で裕福だったと言われる時代です。
明治になって、黒田子爵よりこの地の譲渡先について選定を命じられた当家の8代、森勝蔵は当時内閣総理大臣であった山縣有朋公爵へ繋ぎ、有朋公を旧下屋敷へご案内します。
忽ち気に入られた有朋公はこの下屋敷の購入を望み、併せて周辺地の買収を勝蔵に求めます。黒田家の隣地には青沼亀六郎山名将之助本多丹下といった武家地があり、こうした家々に交渉をし、勝蔵は黒田家の代理としてこれらをまとめる役割を果たしたのだと思われます。その功があって、有朋公爵は広大な地所を入手することができ、当時の地名でもあった椿山を冠して、椿山荘と命名します。
森家はその後も山縣家に出入りし、のちに栃木県矢板市にある山縣家の農場の管理を任されます。
大正七年(一九一八)、今度はその山縣公爵家から大阪の藤田平太郎男爵がこの場所を望みます。平太郎男爵の父、傳三郎男爵は元長州藩士。有朋公爵とも旧知の関係であり、その信用も譲渡の判断だったようです。ただし有朋公爵は平太郎男爵に条件を一つだけ付けました。
「庭の草木一本変えてはならぬ」
という事。
この頃、森勝蔵は嫡男の勝太郎と大阪を往復、勝太郎は後に大阪の京橋に定住するため、事実は不明確ながらもこの件にもかかわっていた気もします。その京橋は現在の藤田美術館に近い場所でもあります。
藤田男爵家は有朋公爵の条件を守り、有朋公爵の旧邸を保存して記念館とし、さらにはその庭園に磨きをかけるべく広島県から三重塔を購入し、築山の上に移築します。
当時は寛永寺や増上寺にも五重塔があり、観光名所となっていましたが、あえて三重塔を望み、苦心の末に見つけたと言われています。
しかしながら東京大空襲において山縣旧邸をはじめ多くの建造物が失われ、わずかに残った倉と、奇跡的に火災を免れた三重塔を基礎に、藤田興業(現在の藤田観光)が名園を再興、昭和二四年(一九四九)に実業家の小川栄一氏が藤田工業の社長となるや、三年の歳月でこれを実現、観光地としての椿山荘がスタートします。その後小川氏は日本電波塔株式会社、つまり東京タワーの取締役として前田久吉翁に招聘され、運営にも参画します。
令和七年(二〇二五)十一月その三重塔移築から一〇〇年を記念しての記念植樹が行われました。
千葉県君津市より石井市長、文京区より成澤区長ご夫妻のご臨席の上、この土地に生きた子孫である黒田祐司様、山縣有徳様、藤田清様、山縣家継嗣の有成様、いわゆる「仲介ブローカー」を果たした森勝蔵家からは私が参席させていただき、そこへ宝生流宗家の宝生和英様が式典に華を添えてくださいました。
これは余談ですが、
久留里藩時代の当地は、迎賓施設であることはもちろん、通常は藩主の家族や大殿様のお住まいでした。久留里藩の参勤交代は片道三日。毎年九月から十二月の三ヶ月弱だけがお国入りでした。黒田家は他の大名とは違い官僚的大名、つまり「働く殿様」であったので江戸城への登城も多い家でした。しかも直邦公に至っては、綱吉が没したのちの正徳二年(一七一二)に初めて領国に帰る許しがおりていますから、その少ない余暇で椿山の屋敷を訪れ、癒しの時を過ごされたことでしょう。こうした顛末を書き残した稀代のメモ魔、森勝蔵が居なければ、私がこれを記すこともなかったでしょう。
この企画を生み出してくださったホテル椿山荘東京の眞田副総支配人をはじめ、経営陣の皆様、黒田家、山縣家、藤田家の皆様、自治体様のご尽力に心より感謝を申し上げます。

