森 宗勇 MORI SOYU

武家の格式と処罰

武家にとって、最も大切なものとされたものが三つあります。

一つは武具。武士たるものの表道具です。先祖代々引き継がれた刀や甲冑はそのまま家の格式を表現します。江戸時代の刀は、現在で言えば車一台に相当する価値があったと考えられま す。

普通の武家では、何振りも持つことはできない物であり、当然のように父から子へ受け継がれる物でした。車と違って、手入れをすれば刀身そのものは何百年も保ちます。ゆえに錆びさせることは武士にとって最大の怠慢です。仮名手本忠臣蔵に大星由良之助(大石内蔵助)が残した錆刀に周囲が驚く場面がありますが、錆びた刀は、呆れさせるに十分な理由でした。

森家の場合は忠広(タダヒロ=黒田直純なおずみ公から拝領した近江大掾だいじょう藤原忠廣)と祐定(スケサダ=ご本家である三日月藩祖森ながとし公の形見であった備前長船おさふね祐定)を当主が、嫡男は安定(ヤスサダ= 大和守安定)を持ちました。小藩の家臣が持つには珍しい高級品ですが、国主大名家であった森家の連枝れんしという誇りがあったわけです。忠広は江戸初期、祐定は戦国末期、安定は江戸中期と、いずれも名工の作品です。

二つに系図。家のルーツと、その格式を証明する資料です。しかし、武家の系図のほとんどは遡れて戦国時代末期まで。しかし多くの大名家が平安時代の天皇や名門の公家につながっています。

系図は皇室や公家が大切にしてきた文化で、武家でも重んじられるようになるのが戦国時代の頃。征夷大将軍は源氏が、摂政関白は藤原氏や平氏は摂政関白がなれるといった先例が重んじられたため、その職になりたいと願う者は、家柄を保つ為に僭称せんしょうや系図の購入、またその氏を持つ公家との縁組などがありました。大名家でもその例があります。これが、江戸時代においては婚姻や藩の役職など、家の格式へと変化していきます。

一介の藩士が将軍や関白になろうなんて思うはずもありませんが、家臣同士や藩内の序列としては大切な要素になっており、系図はそれを示す書類でもありました。

三つ目は、書類。天皇直筆の御宸翰ごしんかんから、著名人の消息、先祖が殿様からいただいてきた知行宛ちぎょうあて行状がいじょうの写しまで家によって様々。これらの書類は家の歴史を表す大切な資料として代々引き継がれます。知行宛行状は現在で言えば藩主から受け取る年俸契約書。殿様や自分の家の代替わりなどで更新する際には返納することもあり、その場合は写しが手元に残されます。この三つが武家の格式を保つ物でした.

次に、その武家が処罰される時のことを書いてみます。重い順に死罪、遠島、追放、改易、蟄居ちっきょ逼塞ひっそく、登城停止などがあります。

家臣が死罪を受ける時、多くは切腹か打首。

武士に打首はないというのは俗説で、実際には大名も打首、つまり斬首となった例があります。関ヶ原で敗れた石田三成は有名ですが、天草四郎の乱を引き起こし、その責任を取らされた島原藩主・松倉勝家もその一人。乱の鎮圧後、津山藩主森家に預けられ、森家の江戸藩邸で斬首となり、東京タワー向かいの金地院こんちいんに葬られました。江戸時代の大名で唯一の斬首刑であるとともに、諸大名への見せしめと警告、統治責任を表すものでした。

旗本の斬首もありました。

遊郭で喧嘩をして殺された旗本御納戸役の多田正房は死後でありながら遺体を以て斬首となり、事件当時多田を見捨てて逃げた旗本小姓組の兼松も捕縛されて斬首刑となりました。後に多田三十郎事件といわれます。他にも、藩主の権限・判断に於いて、藩士が打ち首となる例も多々ありました。

遠島は島流しで、刑期は無期。江戸の場合は多くは伊豆大島や八丈島でした。追放は江戸や本拠地以外の場所に強制的に行かされること。大名の場合は、他家の大名に預けられて、生涯監視下に置かれます。改易は領地と屋敷の没収でいわゆる御取潰しです。蟄居ちっきょは自宅謹慎。

雨戸を閉めた邸内の一室に軟禁、風呂や髭剃りは禁止、食事は膳で運ばれ、家族は勝手口から外出できますが、家の正門には青竹で十文字に括られ、誰の目にもこの家が処罰を受けていることが分かるようになります。逼塞ひっそくは門を閉ざすことは蟄居と同じですが、夜間は勝手口からの出入りが黙認されます。登城停止は文字通りの出勤停止処分です。

逼塞以上になると刀(武器)と系図と知行状が藩主に没収されます。つまり家を証明する資料を取られたことで、「お前の家は何者でもない」というレッテルが貼られるのです。

久留里森家の六代・森みつとみは藩主直和なおやす公のお供で大坂城に駐留していた時、奸臣かんしん(孫の勝蔵曰く)の謀略により、家老を更迭され番頭に降格、五十石を減俸される処分を受けます。藩主の意に添わない行動をしたうえ、大阪から帰る際、公金で私物の長持を購入したというのがその罪とされるが、その後、ある家臣の讒言ざんげんによる濡れ衣と判明し、家老に復職、讒言をした者は免職の上、蟄居となったと記されています。

森家に伝わる古文書類はその一式が「御櫃の物」と言われています。

正親町おおぎまち天皇や水尾みずのお天皇の御宸翰、皇族の和歌、武田信玄(晴信)・徳川家康の書状、乾隆帝の勅書、柳沢吉保・吉里親子の和歌といったものに始まり、ご本家である三日月藩主森家からの書簡類、歴代の森家当主が藩主黒田家から拝領した知行状が一つの櫃に収まった形で残ります。

天皇のご宸翰や武田信玄、乾隆帝のものは歴代の当主が入手したものと考えられます。これらの一式は当主と継嗣(後継ぎ)だけが拝覧することとした「約定之事」が付帯しており、一般への開示を禁ずるものになっています。

しかし,江戸時代も終わると「約定之事」も瓦解していきます。大正時代には八代 勝蔵が武田信玄の書状について写しを東大史料編纂所に提供、黒田家よりいただいた知行書や書簡は、黒田家や森家にゆかりのある寺院に奉納されました。実は勝蔵自身、二度の火災で家伝の資料の多くを焼失しており,二度目の火災の際に一大決心をして「御櫃の物」の放出を決意したのです。

武家の時代が終わって久しくなった大正時代。当主と継嗣だけが拝覧するなどという慣習はもう無くなっていくだろうこと、そして不慮の火災で失ってしまえば、文化財として将来に残すことさえも危うくなることを見極めていたのかもしれません。

ですが、歴代が武士の魂として受け継いできたことへの敬意は忘れておらず、奉納に際しては「旧臣ノ外みだリニ拝覧ヲ許サス」(姫君様御消息巻後記・巻頭図版)と記しています。

ルールは緩くなりましたが、「御櫃の物」は今も生き続けているという形です。

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