2024.09.01
お殿様の家督相続 ①
江戸時代の大名は、子沢山な大名もいれば、婿養子が続いたり、遂には子がなく分家や家臣筋から後継を迎えるなど、様々なケースがありました。また、長男なら必ず後継者になれるわけでもなく、生母の身分(正室か側室か)によっても、後継順序が変わります。
久留里藩主黒田家の場合を紹介します。
長男から長男へという一子相伝のイメージが強い大名家の家督相続ですが、黒田家ほど複雑に入り組む家もまた珍しいでしょう。
しかも、藩祖黒田直邦公の場合は男子の継承者が居らず、娘の三千子様の婿である直純公に二代藩主の座を決められた後に、嫡男が生まれてしまうというケースでした。
元々直邦公には四人の子がありましたが、長男繁丸様が早世したことにより、長女である三千子様に旗本の滝川家から直基様を婿養子に迎えて継承者とします。ところが直基様は家督を継ぐことなくご逝去。未亡人となられた三千子様へ今度は沼田藩主本多正矩から婿養子を迎えます。これが二代藩主の直純公です。
ところが、直純公を後継者と定めた直後に、直邦公のご側室に待望の次男、直亨公が生まれます。本来なら、直亨公が二代当主となるはずですが、本多家に未亡人との再婚をお願いしてまで迎えた直純公です。今更廃嫡することはできません。直邦公は義理を重んじ、生まれた直亨公は庶子として扱い、直純公を変わらず後継者とします。享保二十年(一七三五)に直邦公がご逝去されると、直純公が二代当主となります。直純公は、義父・直邦公に謝し、自分の継承者には直亨公を養子にして後継者にすると定めます。
これがのちの三代藩主となる直亨公です。
直純公には既に嫡男・直弘様が居られましたが、直弘様もまた側室の子。本多家から婿に来た直純公と黒田家とは縁のないご側室の間に生まれた御子ですので、直弘様が家督を継ぐと、それまでの黒田家とは全く違う血筋になってしまいます。
それではいけないと考えた直純公は直亨公を養子に迎え、自分の後継者とします。
直純公の配慮を受けた直亨公は、これを謝し、自身の後継者には必ずや直純公の嫡男である直弘様をとしますが、そうしているうちに直亨公にも嫡男直英公が生まれます。
その後、直純公が没し直亨公が藩主となると、直弘様は直英公のご元服(成人)を待って家督相続を辞退し、自ら望んで廃嫡となります。廃嫡とは、家督継承権を放棄するという意味があります。その理由は病でしたが、直弘様が亡くなるのはそれから十一年後です。享年は四十五歳で、江戸時代では平均寿命でもあり、病気は表向きの理由だったことがわかります。
直英公の元服を待ってというのは、詳しくは後述しますが、元服前の男子が大名の家督を継いだ場合、大きなリスクを抱える事情があったからです。時代劇にみるような、血みどろの家督相続争いも、実際はこのような平和裏に進められていたことが窺えます。
ここに、黒田家の歴代を挙げてみます
初代 黒田直邦
長男 黒田繁丸(早世)
長女 黒田三千子(直純の正室)
次男 黒田直亨
二代 黒田直純(直邦長女の再婚の婿)
長男 黒田直弘 (直純と側室の子)
養子 黒田直亨(初代直邦の次男)
三代 黒田直亨(初代直邦の次男)
養子 黒田直弘(直純長男・廃嫡)
長男 黒田直英
次男 黒田直方
四代 黒田直英(三代直亨の長男)
長男 黒田三五郎(早世)
次男 黒田直温
三男 黒田直行
五代 黒田直温(四代黒田直英の次男)
六代 黒田直方(三代黒田直亨の三男)
少しややこしさがありますので、詳しい略系図は前号三〇ページに所収の図をご参照ください。
四代直英公は生来の病弱といわれました。二十八歳の時、大坂城の加番を幕府から命ぜられ、一年間の大坂赴任をすることになり、その赴任中に大坂城内でご病死。その時の様子は前稿八話にて紹介をしたとおりです。
大名は亡くなると、幕府の検視を受けるのが倣いでした。検視を受けずに埋葬したり火葬をすると、処分を受けます。関ヶ原の戦いで活躍した福島正則は、広島城の無断改築で五十万石から一転、四万五千石の大名になりましたが、亡くなった際に検視が必要であったところ、家臣たちが幕府の役人が到着する前に正則を荼毘に付してしまいました。
これが理由で福島家は更に三千石の旗本に落とされます。
直英公の場合、幸いにも三歳の直温公が嫡男としておられました。しかし、幕府に届けてはいなかったようです。届けるということは、後継者に指名したこととなります。
実は元服未満の男児を後継者にすることは藩にとって大きなリスクがありました。なぜなら元服しない男児は養子をとることができません。未来ある未成年者に養子は不要という考え方です。そのため幼君のまま死亡するようなことがあると、その家は自動的にお家断絶となってしまいます。先述の直弘様が直英公の元服を待って廃嫡されたのはそのためです。その一方で、仮養子という手続きがありました。
大名の実子が幼いときは兄弟や叔父などを後継者とする自筆の書状を幕府に届け出てから江戸を発ちます。その書状は封印されており、再び江戸に戻ったときは、未開封のまま幕府から返却されます。一種の遺言状です。
しかしながら、その手続きは手間を要することであり、すべての大名がこの手続きをして江戸を発つわけではありませんでした。
特に久留里藩の参勤交代は毎年。夏に江戸を発ち、暮れには戻るのが決まりでした。片道4日間の参勤交代。何かがあっても二日もあれば連絡が取れる江戸ですので、仮養子を届け出ないことも多くありました。
ところが、その油断が仇となった事があります。二十八歳と若い直英公がまさか大坂城滞在中に亡くなるという事件。この時も仮養子の届け出をしないまま江戸を発ち、大坂城で亡くなることとなります。
幸い、臨終に際しては幕府の上役である大坂城代の阿部正敏が立ち会ったので、福島の時とは違って不審な点はなく、またご遺骸も関東へ移送するため、問題なく手続きが進みます。ただし、仮養子がいない代わりに、たった一人の実子・三歳の直温公が後継であると、大至急幕府に届け出ます。幼君を戴いた久留里藩は大変。元服迄の十五年間、大事に育てられます。これで直温公が早世すれば、今度こそ久留里藩は御取潰しです。
ちなみに直温公は元服まで存命されるも、享和元年(一八〇一)七月二十四日、十八歳の若さで早世されます。実はこの時も手続きでバタバタすることになるのですが、それは次回のお話といたします(2765文字)