2024.03.01
お殿様の御親類

徳川家康が江戸幕府を開いた際に布告した大名の憲法ともいうべき武家諸法度に、大名同士の婚姻は幕府の許しを得て行う旨が記されています。(『私ニ婚姻を締フヘカラサル事』)
これは、江戸幕府が安定するまでに繰り広げられた様々な戦いで、血縁関係が妨げとなって敵味方となった例があまりにも多かったからといわれます。関ヶ原では敵味方となった真田家などはよく知られています。また、幕府が知らないところで大名同士が手を結ばれることが猜疑の元となる意味でも、絶対的なルールとされました。
寛永二十年(一六四三)頃に幕府によって諸大名の系図集・寛永諸家系図伝が作られます。江戸中期に成立した久留里藩主黒田家はまだ、この系図集には登場しませんが、その後文化九年(一八一二)に寛政重修諸家譜が編纂されたとき、黒田家も収録されます。
久留里藩主となった黒田家は、その昔は丹党中山家にルーツを持ち、舘林藩主から五代将軍となった徳川綱吉の、舘林藩時代の家臣であったことから、江戸中期に大名に取り立てられたことは前稿までに紹介しました。
新しい大名であった黒田家ですが、古参の大名家とも親しい関係を持っており、藩祖黒田直邦公には嫡男がいなかったことから、本多家から婿養子を迎えて後継者とし、これが久留里藩初代藩主の黒田直純公となります。
直純公は子沢山のお殿様で、男子三人、女子十九人を設けています。女子十九人のうち、九人が大名家や旗本に嫁ぎ、十人が森家をはじめとする久留里藩の重臣に養女となっています。その養女たちは、数家が嫡男と婚姻しましたが、多くは養女として過ごし、他藩の重臣に嫁ぐなどします。大名家にとって、跡取りを作ることは家名存続の第一であり、男子であればお世継ぎ様や他藩の婿養子候補に、女子なら幕府の許可を得て他家へ嫁がせ、大名家同士の絆を固める機会とします。
また、幼年で亡くなった方も多く、二十二人のうち、三十歳を超えて存命したのはわずかに九名。この事情は全国の大名家でも同じことでしたので、お世継ぎの育成と婚姻による縁組が大変貴重な機会であったことがわかります。
さて、今回のテーマは黒田家のご親戚です。黒田家の家譜を紐解くと、駿河田中藩主本多家や讃岐多度津藩主京極家、三河吉田藩主松平家、伊勢西条藩主有馬家、近年では対馬藩主の宗家などが登場します。いずれも黒田家の歴代藩主に嫁がれた奥方様や、ご息女の婚姻、また、婿養子によって結ばれたご親戚ということになります。
こうした中に、興味深い親しさがある一家があります。陸奥黒石藩主の津軽家です。
弘前藩主津軽家の分家として、四千石の旗本であった家が江戸中期に一万石に達したことから大名に累進するという、黒田家と似たような歴史を持つ家です。直純公の十九人おられた女子のうち三女である巨萬姫様が宝暦三年(一七五三)六月、四千石の旗本・津軽著高へ嫁すことにより、両家の縁戚関係が始まります。また巨萬姫様の妹にあたる、直純公の十二女・美喜姫様は宝暦十年(一七六〇)四月に当家の三代・森 光嶢に嫁いでおられ、両姫様は二十歳離れていますが、親しい関係であったことが伺われます。また、大名家の婦女は幕府の人質。許可なく江戸を離れることはできませんが、国許(久留里)にいる側室のお子様や、家臣に下された姫様方は国許で暮らすこともありました。しかし、江戸家老であった森家は江戸暮らしで、両姫様とも生涯を江戸で暮らされました。津軽邸は墨田区の本所に、森家の江戸宅は台東区の下谷にあり、両国橋を挟んで近い関係にありました。
後に、津軽著高と巨萬姫様の嫡男寧親が四千石の家督を相続。すると、本家の弘前藩主の津軽信明が急逝。分家である黒石津軽家より寧親が呼び出されて弘前藩主となり、四千石から一気に四万六千石(弘前藩は後に十万石)の大名となります。
そして黒石四千石の旗本領は寧親の嫡男(巨萬姫様の孫)である典暁に預けられますが、この典暁は十七歳で死去。久留里藩二代藩主の黒田直亨公の四男親足が呼ばれて黒石領四千石の旗本を継ぐことになります。呼ばれた理由は、巨萬姫様の甥であるから。加えて、黒田家からの子息を迎えることに配慮した弘前藩主の津軽寧親が内分分知として本家の十万石から親足に六千石を分与し、都合一万石として黒石津軽家を大名にします。つまり、黒田家から入った親足は初代黒石藩主となります。
親類とされる大名家は、現代に考えるような親戚以上の関係を求められます。今挙げたような形で、他家の藩主に迎えられることもあれば、親戚の大名が不祥事を起こして罰せられることもありました。例えば忠臣蔵で有名な吉良上野介へ刃傷に及んだ赤穂藩主浅野内匠頭の場合は、内匠頭の妻の実家である三次藩主浅野家は謹慎処分。母方の従兄弟である大垣藩主戸田家、岡部藩主阿部家も連座して登城停止を受けます。企業でいうところの自宅謹慎や出勤停止処分です。
幸いにも黒田家の周りの藩ではこのような事件はありませんでした。
黒田家の歴史については当家の六代・森光福が書き残した御用部屋控や八代・森勝蔵の大著・久留里藩制一班や雨城廼一滴に詳しく、これらに黒田家のご親族の情報やご法号が収録されています。
また、数年前に、黒石津軽家のご当主である津軽承公様のお宅にご挨拶に伺った折の事です。津軽家歴代のご令室となられている巨萬姫様のお位牌は今も祀られており、津軽家で記されたご戒名とご墓所、ご生前のお名前も残されていました。黒田家の家譜で記されている巨萬姫様は、古満姫様となっており、ご戒名は眞常院殿自得性空大姉 お墓は津軽家の菩提寺である浅草の常福寺(天台宗)となっております。
