森 宗勇 MORI SOYU

お殿様、大坂城の警備をする

天正十二年(一五八四)一月三日、豊臣秀吉は大坂城の山里丸に数寄屋といわれる茶室を設け、信長の子・織田のぶかつと信長の弟である織田有楽を招いて茶室披きを催します。とこには天下一の名物とされた南宋の名僧・虚堂きょどう禅師の墨跡(生嶋いくしま虚堂)を掛け、めんぱく肩衝かたつき茶入に信楽水指と井戸茶碗を用い、襖の向こうでは千利休と津田宗及そうぎゅうが控えたと、宗及は日記に残しているが、信雄はこの会見で秀吉と決裂し、二か月後に小牧長久手で敵対します。

山里丸の茶室披きから三十年後の元和元年(一六一五)六月、豊臣秀頼と母の淀君が山里丸に立て籠り自害。あの生嶋虚堂も焼失します。いわゆる大坂夏の陣です。

その後、大坂城は幕府直轄のお城となります。城主は将軍。その代理として大坂城代が置かれ、それを補佐する二家の大坂定番が置かれます。この三家はいずれも有力な譜代大名が任じられて大坂常駐となります。

この役割は信用面と軍事面からも慎重な人選が行われます。

そこで大坂城代と大坂定番を補佐する役割に大坂大番と大坂加番というものがあり、こちらは一年任期の役職としてやはり信用のある譜代大名が任じられました。表向きはお城の警備ですが、会社に例えると監査役や監査法人に近いかもしれません。

大番の他、加番を命じられる大名は四家。

大坂城内に配置場所が決められていて、山里加番を筆頭加番に、中小屋加番、青屋あおやぐち加番、雁木坂がんぎさか加番で、この筆頭加番を命じられたのが久留里藩主黒田家の恒例でした。

山里加番は豊臣家が最後まで立て籠った場所であるように、大坂城内でも最も重要な警備ポイント。幕府から役高として二万七千石の蔵米が支給されます。三万五千石の黒田家にとっては年収が倍近くになる計算で、歴代の久留里藩主は度々この役を命じられて大坂に派遣されます。黒田家は大坂の陣を知らない徳川綱吉以来の大名家ではありますが、初代の直純公はこの役を三度命じられています。

この役に就く際のお供家老は江戸家老とされ、江戸家老である代々の森家当主が藩主より命じられます。というのも、主君をこの役に付けてもらうために、幕府へ積極的に交渉をするのが江戸家老。様々な藩がこの役を欲しさに申し入れてきます。ですから、お役に選ばれればその責任者として供奉するのは自然なことでした。

私の手許に当家の二代森光仲と五代みつあつと六代みつとみがそれぞれ初代直邦公、四代黒田なおひで公、七代なおよし公、八代なおちか公による大坂在勤中の事を記した記録があり、その内より久留里藩四代直英公の大坂加番を紹介します。

それは江戸家老の森光厚が四十四歳の時の事で、天明五年(一七八五)二月、幕府より直英公に大坂城加番の命が下り、お供家老を命ぜられます。

同年七月十八日に江戸を出立して大坂城に入り、八月に引継ぎを終え、山里丸での生活が始まります。山里丸には加番小屋と言う大名の公邸があります。小屋と称していますが、大名が一年間逗留する場所ですから、実態は書院から寝所まで作られているお屋敷です。直英公本人は守備に専念するため、原則城の外には出ません。そして久留里の家臣は山里丸へ入る極楽橋の手前にある「加番家来の屋敷」に詰めます。家臣は外出ができるため、藩主のお使いや、泊まりがけで高野山詣や吉野山、法隆寺参詣もしています。とはいえ実際には藩主自身、寺社参詣などを理由に城外に出ていたようで、史料には直静公の四天王寺の参詣が記されています。

さて、大坂駐在中の直英公が体調に異変を来します。翌天明六年(一七八六)七月、大坂城が暴風雨に見舞われ、その陣頭警備にあたっていた疲れで肺炎を起こし、折からの病弱もあって任期満了まであと二週間という七月十八日、直英公は山里丸でご卒去。

享年二十九。この日は直英公の御正室であった於品の方様の三回忌でもあり、ご夫妻が同じ御命日となりました。

さらに偶然は重なります。明和六年(一七六九)の山里加番においては加番役の美濃加納藩主・永井尚備なおみつが、やはり同じ七月十八日に同所で亡くなっています。

さらに直英公が大坂城に向け、江戸を発ったのは前年の七月十八日。於品の方様、直英公、永井氏の命日が重なったことは、光厚も、「眞奇怪事也」(奇怪だ)と残しています。

直英公の死は大坂城代の阿部正敏まさとしに伝えられます。正敏もまた、度々加番小屋へ見舞に訪れています。正敏の力添えもあり、嫡男のなおあつ公が五代藩主となります。わずかに三歳。ご誕生後、すぐに亡くなった於品の方様の忘れ形見です。

直英公のご遺骸を棺に納めて塩漬けにし、真夏の暑い時ではありますが、これを黒田家の菩提寺である能仁寺(埼玉県飯能市)へ葬送する段取りも整えます。大阪を八月二日に出立。二十日をかけて飯能へ運び、同月二十五日に能仁寺でご葬儀が営まれました。ご戒名は泰崇院殿雄山直英大居士

さて、後任の大坂加番が到着し、引き継ぎがされるまでの三週間、光厚がその代理を務めます。後任の大名は陸奥福島藩主・板倉内膳正勝長。勝長は二回目の大坂加番で、前回の天明三年(一七八三)は落雷で大坂城大手門近くの櫓を焼失させ、大赤字の赴任でした。

幕府も役高を与える事で穴埋めの配慮をした選任だったのかもしれません。

さて、我が家の記録には大坂城に於ける引継ぎ式の様子が記されています。読み込むだけでも、壮麗であった様子が伺い知れます。

天明六年(一七八六)八月二日。記録によるとこの日は晴で、その概略を紹介すると、大坂城内の極楽橋の袂で後任の板倉家の一団が武装して待機し、黒田家が退出するのを待ちます。武装という意味は、この役務が大名に課せられている軍役だからです。一国の大名が改易になり、将軍の上使として派遣された請け取り役の大名に城を明け渡す際にもこれと似た所作があります。

一方の黒田家では加番小屋の整頓をし、絵図面や書類の他、茶菓と茶器一式を広間に備えて板倉家への置き土産とし、引き渡しを調えます。

その上で死した主人に代わって森清太夫光厚が名代となり、亡き直英公の兜を先頭に、やはり武装して山里丸側から極楽橋に姿を現します。背後に家臣を待たせた上で、ひとり橋の中央まで進み出て、口上を読み上げます。この役目は本来、直英公が勤めます。

「当家豊前守(直英)去る七月十八日に身罷りしに付、豊前守家来、森清太夫このお役を確かに板倉内膳正(勝長)様へお引き渡し致し云々」

これを受けて、板倉勝長からの挨拶があり、両者左右一列で橋を渡り、引継ぎを終えたことが当家の史書に記されています。

(タイトル除く2718文字・139行)

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