2022.03.01
新しいお殿様
上総久留里藩は、里見氏の時代から発展し、土屋家が治めたあと一旦廃城になって、大老酒井家の加増地になったりと、領主が転々としたのち、寛保二年(一七四二)に黒田直純公が新しい領主として久留里にお国入りした。時は既に江戸時代中期で、武家諸法度によって新しく築城することは原則として許されない時代。その幕府からなんと、五千両もの資金を賜り、久留里城の築城を許されている。
この黒田家とはいったい何者なのか。
平安以来の武士集団、武蔵七党のひとつで、丹党の末裔である中山氏の出身。黒田官兵衛で知られる福岡藩の黒田家と間違われるが、それとは異なる家で、江戸中期に始まった新しい大名家。
昔、学校の教科書では幕臣、すなわち将軍の家臣として一万石を超えると大名といわれ、その種類には親藩、譜代、外様というものがあり、親藩は德川将軍の親戚、譜代は関ヶ原の戦以前から德川家の家臣だった家、外様は関ヶ原の戦いの後に德川家の家臣となった家と習った。すべては德川幕府が開かれた頃に作られた大名の序列で、江戸城内での席次や詰所といった、将軍家からの待遇に差が付けられていく。
では、新しい大名家である黒田家はこの序列のどこに含まれるのであろうか。黒田家は元々親藩である館林藩二十五万石の領主・德川綱吉の家臣として、館林藩士から始まった家。今日のお話は関ヶ原の戦いを知らない、新しい大名家の誕生についてである。まずは直純公の妻の父、つまり義父にあたる黒田直邦公と、将軍德川綱吉の関係にさかのぼるとしよう。
德川綱吉は四代将軍徳川家綱の弟であり、本来は将軍職を継ぐ立場になかった。しかし家綱に嫡男がいないまま危篤状態となったことで、
綱吉にとっては、棚からぼたもちとなった。
館林藩主ではあるが、将軍の実弟として、定府(江戸定住の大名)であったことも強かった。当時二歳の嫡男、徳松を館林藩の二代藩主とし、自らは家臣を率いて意気揚々と江戸城に入ってしまった。その直後に家綱が薨去し、五代将軍德川綱吉が誕生した。つまり、この時に従った綱吉の家臣たちが幕臣となり、新たに加増を受けて一万石を超え、新しい大名家となった。古参の大名家にとっては不愉快であったはずだが、新将軍の威光の前には異を唱えられる者はいなかった。
こうして綱吉によって幕臣から大名に昇格した者から、三者を挙げてみよう。
まずは館林藩の家老・牧野成貞の三千石、柳沢吉保の五百石。そして黒田直邦公の三百俵。これは養父の黒田用綱が館林藩の家老として三千石だったことによる。
このうち直邦公は最初、館林藩主に据えた徳松のお世話役として、藩士のままであったが、徳松が将軍継嗣として江戸城に入ることになって幕臣となり、元禄十三年(一七〇〇)に初めて石高一万石を超えて大名となった。
幕臣とはいえ元は館林藩の一藩士である。それまで、数人の足軽を雇うだけの武士であったが、急遽百人単位で藩士を大募集することになり、将軍直参の家臣であるによって譜代大名としての待遇を受けることになった。
そんな彼らは江戸城中では強気の外様大名にけしかけられ、肩身の狭い思いをしたこともあったようだ。
例えば柳沢吉保。側近中の側近として権勢を強めていくが、歴史が浅かった。吉保の祖父は武田の遺臣で、館林に来る前は百六十石の旗本として大坂夏の陣にも参加はしていたが、大名を前には比較にもならない。
あるとき江戸城の詰め所で、古参の大名たちが車座になって先祖の功績を紹介し合っていた。多くは関ヶ原や大坂の陣のこと。そこへある大名が柳沢吉保に一言こう投げた。「貴殿の先祖は先の戦ではどのような功績を挙げられたのか」。しかし吉保も負けない。何を言うだろうと諸大名が注目していると吉保、「皆様とは異なり、私は先祖といわれる立場になる者です。しかし、いつまでも先祖の栄光にすがることがないようにと、子らには教え説くつもりです。」。
次に直邦公。ある大名が黒田家の家臣が優秀ぞろいと聞くや、「あなたの家臣は文武に秀でていて羨ましい」と投げかけた。これを聞いた直邦公は「当家のような新しい大名家は必死になって家臣を集めるので、どうしても秀でた人間を取ってしまいます。私の家も早くあなた方のように無芸大食の家臣を召し抱えられるような家になりたいです」。
三人のうち、牧野成貞は越後長岡藩主の親類であり、祖父牧野康成は三河時代から徳川家臣であったので、この類の逸話は見られないが、これらは後々の語り草となり、様々な逸話として書き記されてきた。このような逸話からも見られるように、新しい大名たちは古参の大名らと対等に渡り合えるよう、様々な努力をしている。直邦公が言う、秀でた家臣の採用についても、大名家の次男や三男を高禄で召し抱え、古参大名とのパイプを作ってみたり、武道の師範クラスを迎えたりと、当時の藩士録ともいえる分限帳(森勝蔵筆・来里武鑑や黒田家臣傳)を開くと、その努力が伺える。
後に久留里藩家老となった森家の初代・光照も、津山新田藩主であった森長俊の三男。後継者になる長男以外の男子は、運がよければ他家へ婿か養子に出されて大名か旗本になれるが、多くの場合は生涯、兄の居候になるか、家臣となって暮らすところであったのを、直邦公が召し抱えられた。森宗家としては食い扶持が減らせるうえに、将軍の側近とパイプが作れ、黒田家としても国主大名一族と縁を持つことに悪い理由はなかった。
一方で古参の大名家は完全世襲制ゆえに、武芸に励まず、武士でありながら貴族化した家臣も多かったようだ。直邦公はそれを皮肉ったのであろう。
また、直邦公は綱吉が奨励する儒学を極め、立身出世には関心を示さず、儒学者の荻生徂徠に弟子入りするなど、様々な学者との付き合いを大切にし、諸国の大名や藩士に向けて儒学の心を以て国を治めるべきと説いた『老話』や『治教略論』を著した。これらは現代も出版物となり、今に残されている。
このように学者肌な人柄は周囲からもその公平性が認められ、綱吉没後も幕閣の中心で要職に就きながら石高を増やしていった。
そして享保二十年(一七三五)に直邦公が亡くなると、当時著名な儒学者であった太宰春台による大きな碑文が墓所の多峯主山(埼玉県飯能市)の頂に建てられた。直邦公には嫡男がいなかったが、長女の三千子様に本多家より婿を迎えて跡取りとし、黒田家を相続させた。これが黒田直純公である。直純公の時代は既に綱吉亡き後であり、享保の改革で知られる幕府財政の大倹約を行った将軍徳川吉宗から久留里城の再建費用として五千両が下され、森光照の子、光仲は直純公によって久留里城の築城奉行を命ぜられた。築城や修復が禁じられた時代に、異例の築城を行ったことは直邦公の人柄が生んだ幕閣の信頼度の高さを改めて感じ取ることができよう。ちなみに三百俵から始まった出世街道は、その臨終のとき、三万石になっていた。
久留里城風景の図(部分、森勝蔵筆、森家蔵)