2021.09.01
幕末の房総半島

徳川家二百六十年は、領土の奪い合いが起きなかった盤石の時代。対する信長や秀吉の時代は群雄割拠、下克上ともいわれ、平和な時代ではありませんでした。天正十八年(一五九〇)、秀吉による小田原征伐の後、徳川家康は旧北条家の領地であった関東一円を与えられ、江戸に新たな街と居城を造ることになります。
湿地帯に過ぎなかった江戸。しかし、河口が多く、平地が多くて山がないことは、候補であった小田原や鎌倉に比べると開拓の余地があり、家康は江戸を居城と定めますが、その周辺は配下の家臣に守らせるなど、防衛についても怠りませんでした。
例えば房総半島に配下とは言えない大名が領有していたら、対岸の江戸は常に緊張していたでしょう。関ヶ原では徳川に味方せず、平安時代から常陸を領有していた戦国大名の佐竹氏を秋田へ移らせ、我が子の信吉や頼宣、頼房を水戸に置いたのもそのためとも言えます。
こうした努力により、房総半島は徳川家にとって、腹心ともいえる家臣たちを中心に、比較的小さな石高の大名たちに守らせる土地となりました。
また、武家諸法度を中心に厳格な決まりを設け、大名の統制も図られます。例えば参勤交代の人数やコースも決められていて、確実に旅費を使わせ、勝手にコースを変えると、幕府から処罰されるわけです。
腹心の家臣とはいえ、房総半島の大名たちも同じでした。木更津あたりから船で江戸湾を越えられれば人件費も安く抑えられて、一日で江戸に着けますが、江戸湾を船で渡るなんてとても許されません。
久留里藩の場合は、参勤交代の人数は五十人と定められ、市原から八幡宿、稲毛、船橋、国府台と通過し、両国橋から江戸に入るのが決められたコースでした。このコースを三日ほどかけてお金を使いながら江戸へ向かうのです。
こうした細かい規則を守らせることが、徳川幕府の権威となり、また反乱の抑止力となって平和な二百六十年間となったわけです。
この平和の仕組みが歪みはじめたのが幕末です。アメリカから蒸気船がやってくるようになり、幕府に対して開国や自由な貿易など様々な要求が出されるようになります。
こうした動きに敏感に対応することが求められた房総の諸藩は、幕府から様々な防衛命令を受けます。森家の六代当主で久留里藩の家老・森清太夫光福は、九十九里浜で外国船の調査や警備を命じられるなど、最初のうちは幕府の指示にきちんと従っています。しかし幕府の力が弱くなるにつれ例外的な行動も多くなり、江戸への急行を理由に、船で江戸湾を渡ることも増えてきます。一度便利を知ると、旧に戻せなくなるのはいつの時代も同じです。
森家に一冊の史料があります。当時はテレビも新聞もない時代ですから、すべての出来事は自分たちが書き記すことのみで伝わりました。森光福の孫で、森家の八代・森勝蔵が記した記録には、この幕末に房総半島で起こった様々な出来事が事細かく記されています。
そのひとつに慶応四年(一八六八)の勝海舟と西郷隆盛の間で行われた江戸城の無血開城があります。勝蔵のメモには、決して表に出てこない、その舞台裏の準備ともいえる興味深いストーリーが記されていました。
慶応四年三月。久留里城の城下町に旅姿をした四、五名の侍が現れました。彼らは鹿児島弁を話し、城下に宿を取り、朝から夕方まで領内を散策しながら二週間近く滞在。領民たちは訛りのきつい彼らを珍しがるも、彼らが何の目的で久留里へやってきたかはついにわかりませんでした。
滞在最終日。彼らは藩庁を訪れます。そして勝蔵の父で、久留里藩家老・森格左衛門光新(森家七代)に面会を求め、次のように通告します。
「徳川の体制は死に体となっており、世の中はまもなく勤皇の国として生まれ変わることになる。我々は鹿児島藩士であり、江戸にある幕府軍にこれを説いて納得をしてもらいたいと考えている。だがもし、彼らが我々の意見を聞き入れず、江戸城に立て籠るようなことがあれば、我々は江戸を戦火に包んででも彼らと戦わなくてはならない。
鹿児島県某所から房州白浜までは海路で三昼夜で到達できる。もし江戸城が官軍に引き渡されないときは、ここ久留里を足溜として兵力を駐屯させて、江戸を攻撃したい。すでに長州藩や岡山藩も我々と行動を同じくしているから、久留里藩にもぜひその協力をしていただきたい。領内は見せていただいた。城下の箕輪あたりの広原には何万もの兵を置ける最適な土地である。」
それは二六〇年前、徳川家康が恐れていたプランそのものでした。さすがの家康も、九十九里沖に蒸気船が攻めてくるとは思わなかったでしょうけれども、房総半島が江戸攻略の要衝として見られていたことは明らかでした。家康はこれを恐れていたからこそ、房総半島を譜代の大名で固めていたのです。
久留里藩主の黒田家も、彼らが久留里に来る一か月前までは、幕府軍を支援して、寛永寺の徳川慶喜の警護をし、勝蔵自身も慶喜の寝所周りを警備したと他の史料で述べています。これに対して鹿児島藩は島津家、長州藩は毛利家、岡山藩は池田家といった外様大名であり、もし、先月まで将軍の傍近く警護していたような譜代の藩が突然官軍に寝返ったら、近隣の譜代大名は久留里藩を許さなかったかもしれません。
森光新に一か月返事を待ちたいと言い置き、久留里を去った彼らは翌月、鹿児島藩、長州藩、岡山藩、大村藩、津藩などによる連合軍約三〇〇名を率いて予告通りに久留里城下に戻ってきました。
久留里藩内では重臣会議を幾度も開きましたが、幕府軍に味方すべきという者もあり、藩論は中々纏まりません。そこへ時間切れとなり、三〇〇もの官軍が武装して押し寄せてきた。
これには事情を知らない領民たちも驚き、城下町は大混乱。この混乱に乗じ藩の指示を無視して幕府軍への味方を強行しようとした若い藩士を父が斬捨てるという悲劇も生まれましたが、この現実を前に、久留里藩は官軍を支援することを決断。光新は、城下のすぐ外で駐屯する官軍に単騎で駆け付け(右図)、藩主黒田直養の手紙を渡し新政府に恭順。事なきを得たのです。
同じ頃、別のルートを幕府軍が久留里領へやってきます。数十人の小さな集団だったそうで、彼らには少しばかりの食糧を提供し、道を戻らせました。
これによって三〇〇名の兵は去り、同じ頃、江戸城の会談は成功して無血開城。九十九里浜から江戸に向かって兵が上陸するという最悪の事態は避けられました。江戸城無血開城の裏に残されたひとつのシナリオ。その時代を生き、関係者の一人であった森勝蔵は、その状況を詳細に記し、我が家に伝え残しました。
