森 宗勇 MORI SOYU

上総国というところ

鹿野山のある上総国はその昔、都では遠国といわれた場所でありながら、上総かずさのかみというその国の主は必ず皇族が任じられ、親王しんのう任国にんごくという最も格式の高い国として扱われてきた歴史を持ちます。

例えば、越前守なら越前国の長官を指し、上野こうずけのすけといえば上野国の次官を意味します。

戦国時代の織田信長は、織田おだ上総かずさのすけ信長のぶながと名乗りましたが、上総かずさのかみを名乗らなかったのは、上総守は九世紀以降、皇族でないとなれないと決まっていたからでした。忠臣蔵で知られる吉良義央が「吉良きら上野こうずけのかみ」でなくて「吉良きら上野こうずけのすけ」と名乗ったのも同じ理由です。この親王任国は全国でもたったの三か国。上野国と常陸国、そして上総国でした。上総国は大変な国だったのです。

その上総国がなぜこれだけ重要視されたのか。それは日本の伝説的英雄で、第十二代けいこう天皇の皇子であるヤマトタケル(日本武尊)までさかのぼります。ヤマトタケルは東征と呼ばれる東日本を制圧する旅にでて、この地を訪れています。栄光の印象が多いヤマトタケルですが、その道中には様々な悲劇が伴います。

ヤマトタケルが上総の地に到達する前のことを書いてみましょう。

そもそもヤマトタケルの東征は急に決まりました。その直前まで征西と呼ばれる西日本の制圧を終えて、都に帰ってきたばかりだったのです。しかし父の景行天皇はヤマトタケルに直ちに東国に向かうように命じます。

疲れを癒す暇も与えられなかったヤマトタケルは途中、伊勢神宮に立ち寄り、叔母のヤマトヒメ(倭姫命)に会います。ヤマトヒメはヤマトタケルが道中のお守りとなるようにと、皇祖アマテラス(天照大御神)から伝わる神剣と、困ったときに開けるようにと、ひとつの小袋を与えました。その後、ヤマトタケルは尾張、駿河と旅をしていきますが、駿河国に来たときにこの叔母の贈り物が役立つときが来ます。その国の長である国造くにのみやつこは、ヤマトタケルを歓迎して出迎えます。しかし、それは謀略で、ヤマトタケルを野に誘い込んでから草を積み、囲んで焼き討ちにしようとしていたのです。火に囲まれたヤマトタケルはヤマトヒメからもらった刀で火を振り払い、脱出に成功します。そしてもらった小袋を開けると火打石が入っていました。これを用いて迎え火を作り、火を退けて、謀略を企てた国造を討ちます。この時、神剣で草を薙ぎ倒したことから、草薙くさなぎつるぎとの名前が付き、国造を火で「焼き遣わした」ことから、ここに焼津という地名が生まれたと伝わります。のちにこの草薙の剣は三種の神器のひとつとなり、皇位の象徴となりますが、ヤマトタケルの死後、この神剣は熱田神宮に祭られ、皇居には形代かたしろが伝わりました。のちに壇ノ浦で入水した安徳天皇はこの写しを持って海に沈まれ、のちの天皇は新たな宝剣を伊勢神宮から神剣を取り寄せ、形代としたといわれます。これが現在宮中に奉安されている三種の神器のひとつ、草薙の剣です。

さて、駿河国から相模国に入り、浦賀まで来た一行は、海路でこの上総国へ渡ろうとします。

しかし、浦賀水道あたりで大変な嵐に遭遇し、船が転覆するかのような遭難に出くわします。これを海神の怒りであると考えたヤマトタケルの妃・オトタチバナ自ら海に飛び込み、海神の生贄となりました。おかげで嵐は鎮まり、船は上総国に到着します。しかし、ヤマトタケルは、

君去らず

袖しが浦に 立つ波の

その面影を 見るぞ悲しき

と詠い、これが木更津や袖ヶ浦の語源になったといわれます。実は、袖ヶ浦についてはもう一つの伝説があり、左側の袖が流れ着いた場所が袖ヶ浦市に、右側の袖が流れ着いたのが習志野市に所在する袖ヶ浦という説です。日本全国を探しても袖ヶ浦という地名は千葉にあるこの2例しかありませんから、信ぴょう性がありそうです。

また、オトタチバナの着物の袖が流れ着いたから袖ヶ浦になったともいわれます。ヤマトタケルの木更津上陸から七日後、海岸に櫛が流れ着きます。ヤマトタケルはその地に御陵みささぎを作り

その櫛を埋葬したといわれます。

さらに、東征を終えたヤマトタケルは都へ帰ることになります。その旅は徒歩だったといわれ、三重のあたりまでやってきたとき、ついに力尽きます。都のある大和国まで帰りたかったが叶わず、ついに伊勢の能褒のぼで亡くなります。ヤマトタケルはその地に埋葬され能褒のぼののはかとなります。ほどなくしてここへ家族が駆けつけると、大きな白鳥が羽ばたいて飛び去って行きました。

この白鳥はヤマトタケルの魂が乗っていたと伝えられて様々な場所へ飛んでいきます。

その白鳥が留まった地とされる、河内国(大阪府羽曳野市)や大和国(奈良県御所市)がヤマトタケルの墓所と定められていて、どちらも白鳥陵という名前で呼ばれ、宮内庁によってていされています。

さらに、この白鳥はこの上総国にも飛来してきます。そのゆかりの場所とされるのが鹿野山山頂付近にある白鳥神社です。

この白鳥神社、ヤマトタケルが祀られているものの、その創建には3つの説があります。

オトタチバナを慕ったヤマトタケルの魂が、彼女の櫛を埋めた陵を目指して白鳥に乗って飛んできた説。この時に飛来した白鳥が鹿野山の山頂に留まったとか。

ヤマトタケルが白鳥に化身して飛んできた場所という説。富津市大和田にある吾妻あづま神社は、オトタチバナがまつられた神社として知られ、ヤマトタケルが偲んで建てたともいわれます。ヤマトタケルが上総にいた当時はまだ東征の最中でしたから、吾妻神社から鹿野山方面に進撃しようとしたとき、なんと白鳥に化身して飛んで行ったというのです。

道案内をした白鳥が留まった場所説。

上総国から常陸国に向かう際に道案内を

した白鳥が留まったのが由来とする説も

あります。

ヤマトタケルが亡くなった後で白鳥に姿を変えたという伝承は古事記や日本書紀にも登場するもので、これらを俗に白鳥伝説と呼ばれますが、生前の化身説や白鳥による道案内説は鹿野山の白鳥神社のみに伝わる伝説でとなっています。

もうひとつ、鹿野山には神野寺があり、神野寺の開基となった聖徳太子は、この地を訪れたヤマトタケルを崇敬していたともいわれ、神野寺の創建につながると考えられています。

ヤマトタケルが訪れた時代の上総の国は今のように拓かれてない土地ばかりだったかもしれません。しかし親王任国という、高貴な待遇を以て配された上総国でもあり、天皇家に縁のある史跡も数多くあります。次回はそのようなところをご紹介してみたいと思います。

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